Q. クレー射撃を始めたきっかけを教えてください 学生の頃はソフトボールをやっていて、高校では寮に入り3年間ソフトボール漬けでした。高3の夏のインターハイで準優勝をして、MVPをもらったんですよ。インターハイ後に、埼玉県選抜チームで国体に出場した際に、国体の会場で今の所属会社から「クレー射撃でオリンピックを目指してみないか」と声をかけられました。 1996年、高3のインターハイが終わって、国体までの期間中に、ちょうどアトランタオリンピックがありました。その時、クレー射撃で、わずか競技歴3年でオリンピックに出場し6位に入賞した日本人選手がいました。当時、所属会社では、何かシンボルスポーツを作りたいと話をしていたところに、日本人選手の活躍があり、クレー射撃部創部の話が持ち上がりました。ソフトボールで培われた眼を買われ、私の名前が候補に上がったそうです。 Q. ソフトボールとクレー射撃のスキルはどこに共通点があるのでしょうか 動体視力と瞬間視です。それから下半身がしっかりしていて軸がぶれないような人材を所属会社が探していた時に、キャッチャーをやっていた私の名前が上がったそうです。 Q. 競技転向を決心した決め手は何ですか それまでは、大学か実業団でソフトボールを続けることを考えていたので、全く違う方向からのアプローチに驚き、熱心に誘われて迷いました。たまたま祖父が狩猟をやっていて小さい頃から銃を見ていたことと、団体競技もいいけれど個人競技も面白そうだと思いました。 また、部活の顧問の先生が「競技者としては変わりないのだから、新しい道へ行ってもいいんじゃないのか」と背中を押してくれました。所属会社からは射撃でイタリア留学の話をいただいたので、世界を見てみたいと思いました。それで自分でも「やってみよう」と思いました。 Q. 競技を始めてから国際大会に出場されるまでの流れを教えてください 入社して約3か月の間はイタリア語の勉強と自動車運転免許の取得をして、クレー射撃の盛んなイタリアへ一年半渡って修業をしました。日本で銃所持許可の取得は、特別申請がある場合は18歳以上、基本的には20歳以上でないとできないんです。申請が下りるまでの間にイタリア留学をしました。日本に帰国後、代表選考会に通り、ワールドカップ等の大会に出て、2000年のシドニーオリンピック出場枠を獲得しました。競技を始めて1年11か月でした。 Q. 練習時・遠征時、娘さんは誰とどのように過ごしていましたか(乳児期→幼児期→小学生→中学生) (娘さん)比較的自宅から近い練習場には、よくついて行っていました。遠征や大会などで母がいない時は祖父母と一緒にいて、小学生の時は、自分で祖父母宅に行き、帰りを待っていました。中学生の時は、祖母が家に来てくれて洗濯やご飯を作ってくれていました。練習が終わるまでは、勉強をしたり、部活の練習をしていましたが、小さい頃は練習の様子を見ていたので、不安なく、応援していました。 (中山選手)練習場では、関係者が皆、孫のように接してくれて、娘がいることはどこの練習場でも浸透しています。連れて行くようになったのは、競技復帰してすぐで、娘が2歳くらいからです。その時は祖父が連れてきたり、待機室で待ってもらっていました。 Q. 競技と両立するために、娘さんの成長にあわせた工夫はありますか 幼稚園の頃は、帰ってくるのが早いので、その時間に合わせて練習を切り上げて帰っていました。小学校に入ってからは、小学校の時間にあわせて帰宅して面倒を見ていました。小さい頃は身の回りの世話に手がかかりましたが、小学校高学年から思春期の問題や精神面のサポートが必要だったので、成長の段階にあわせてできることをしていました。 Q. お母さんがいない時、どのように感じていましたか (娘さん)今は寂しい感情はあまり無いですが、小さい時は、遠征時や、一週間いない時などは寂しかったです。なんで友達のお母さんは家にずっといるのに、という気持ちもありました。成長するにつれて、母のことを誇りに思うようになりましたが、小さい時は母が家にいるのが当たり前だと思っていたので、いないことに寂しいなと思っていました。一緒に練習に行ける時は、側で見えるところにいましたし、周りの方も優しくして下さったので、不安や寂しさは少なかったです。 小学校1年生の時に北京オリンピックだったのですが、「行かないで」という気持ちと「頑張って」という気持ちが五分五分で、送り出す時は常に泣いていました。目の前からいなくなる、どこか行ってしまう寂しさと、それが仕事であり、夢であるので、応援したい気持ちでしたが、小さい時は「なんで?」という気持ちもありました。 誰かに話すことはあまり無かったですが、一緒にいる時は大切にしてくれていることは分かっていましたし、大きくなると同じ夢を共有していたので、寂しい気持ちは無くなって、夢に向かって「頑張って」と応援する気持ちが大きくなりましたね。 Q. 娘さんを置いて、合宿や遠征に行かないといけない時の感情を教えてください 特にうちの子はよく泣く子で、離れる時にTシャツが伸びるくらい泣くんです。「中途半端な気持ちで行ってはいけない」という気持ちと、「結果を残さないと!」という気持ちでした。 小学校からは言葉で感情を伝えられるようになり、「なんで?」と聞いてくるんです。娘が5・6歳の時に、北京オリンピックの出場枠がかかった試合や北京オリンピックがありましたが、真剣な顔で「どうしてお母さんいないの?」と聞かれたり、「普通のお母さんが欲しい」と言われていて、中途半端な気持ちではいられなくなり、責任感が強くなりましたね。 「どうしてお母さんいないの?」と言われた時は、後ろ髪を引かれる思いでした。私は選択ミスをしたのかとも思いました。でも結果がすべてだと思います。いつか理解してくれる時がくると思って、競技を継続しました。実際に北京オリンピックを見に来てからは、大人に成長していったという感じですね。 Q.娘さんは「ロンドン五輪で引退して欲しい」と思っていたということですが、なぜ引退して欲しいと思ったのですか。中山さんはこの言葉を聞いてどう思いましたか (娘さん)小学校1年生の時、北京オリンピックの応援に行きました。3位決定戦が終わって、お母さんに会わずにはいられなくて、みんなホテルに帰る中、ドーピングコントロールが終わるのをずっと待っていたのですが、お母さんが出てきた時に走って行ったら報道陣に囲まれてしまいました。「ロンドン終わったらやめてね」という言葉は、今まで会えなかった寂しい気持ちがその時に突発的に出てしまったのだと思います。それがメディアに取り上げられてしまいました。 (中山選手)北京オリンピックでは3位同点で、サドンデスゲームで標的を落とせず4位になりました。ドーピングコントロールが終わって、久しぶりに娘と再会して会話を交わした時の娘の発言が「ロンドン終わったらやめてね」でした。「4年後も行ってもいい?」と聞いたら、娘が泣きながらこう答えました。多分その当時の雰囲気やずっと待っていたのに2人にしてくれない状況が、その言葉を出したのかなと思うのですが、その時は驚きが大きかったです。私は泣けなくて、フォローするしかないと思って抱きしめました。その時の娘の率直な気持ちだと思います。 Q. 引退せずに競技を続けましたね。親子で話し合いましたか (娘さん)今は逆に続けて欲しいと思います。自分でも何であんなことを言ったのかな、と不思議なのですが。寂しさと自分の近くにいて欲しかった気持ちが勝って出た言葉だと思います。あれが本心からの気持ちだったら、「今すぐやめて」と言っていると思います。 (中山選手)北京オリンピックでメダル争いした結果4位だったので、これでは終われないと思い、何とか続けたいと思いました。でも、周囲のサポートが必要で、1人では決められない事なので、まず娘にはロンドンまではいいと言われたので続けました。 今回のインタビューで、高校生になった娘から「本当にやめてほしかったら、今すぐやめてと言っていたはず。」と聞いて、ハッとしました。私自身、子育ての正解がわからずにきていたので、成長したな…と思います。母になってみて、子どもに教わることの方が多いです。成長してこういうことを言ってくれて嬉しいですし、ジーンときます。やって来てよかったと思います。 Q. 今までで一番大変だったことは何ですか (娘さん)小学校6年生の時、母が世界選手権(2013年)でペルー遠征中に、私が日本で肘を骨折し手術をしなければならなかった時です。小学校最後の運動会で校旗を持つ大役が嬉しくて張り切って練習していました。旗をしまいに行く際に転んで肘を骨折してしまって、教頭先生の車で病院に行き、CTを取ったら、骨折していてすぐに入院・手術。これまで一度も入院した事がなくて、どうしようと不安に思いましたが、祖母が同じ病室で寝泊りしてくれました。祖父から「ママ準優勝したよ」と教えてもらって、嬉しいけれど、手術が不安でどうしようと思っていました。帰国は手術の次の日で喜びと痛み、帰国後に母と抱き合った時は2人で感動しました。 (中山選手)大変だったのは子どもの怪我や病気を知らされた時です。競技に集中できないし、病院にかけつけられないことを後悔したりしました。この2013年の時は銀メダルを取った3・4時間後に小学校から電話があり、掛け直して状況を知りました。試合の次の日にペルーから長い時間をかけ帰国して、成田空港から直接病院へ行った時には、もう術後で、痛みを共有できなかったことは、今でも可哀そうに思います。でも乗り越えてくれたのは両親のサポートがあったからです。 Q.今は高校生の(娘さん)とこれまで歩んできた中で印象的な思い出は何ですか 北京オリンピックの時、娘に闘う姿を見せたのが印象深いです。一度、シドニーオリンピックの後に引退して、2003年に復帰して・・・シングルマザーで育ててきています。その中で、気持ちの面を克服するためにも挑戦した2008年の北京オリンピックでした。「強いママ」を見せたくて臨みました。結果的には4位で終わってしまって。その時の感情や、娘との思いが現在も心の底にあります。この子にメダルをかけるという約束がまだ原動力になっています。前に進もうという気持ちになれた大会でした。 Q. 競技を続けながら子育てをするアスリートが増えてきています。サポートのためにどのような環境が必要だと思いますか 私は出産後、競技復帰する時にママアスリートのロールモデルがいなかったので自己流でした。私や三星(マナミ)さんみたいなママアスリートが出てきたので、ネットワークを通して情報交換、発信できる力を出さないといけないと思います。女性コーチを増やしたり、女性が競技をしやすい環境を作ることも含め、役に立ちたいです。 Q. ママアスリートのトップランナーですが、今後の目標はありますか 今、大学院に通っています。1年間で何とか単位をとって、競技復帰したいと思っています。今はトラップ種目をやっているのですが、ミックスという新種目ができました。私はこの種目でどうしてもオリンピックに出場したい。日本ではオリンピックに4大会出場している選手が10数名います。5大会出たら、片手で間に合う程度に入れるかもしれません。やってきたことの集大成として挑戦し、大学院の授業と修士論文も並行して、一歩一歩進みたいです。 Q. 子育てしていく中で、母としての悩みも多いと思いますし、子どもと一緒にいられない中で、なぜ競技を続けてこられたのですか 私は初めからママアスリートになりたかったのではなく、自分を変えたいという気持ちが強くて、シドニーオリンピック後に出産復帰し、結果的にママアスリートになりました。 復帰して、北京・ロンドン・リオと1つ1つ乗り越える毎に子どもとの絆が深まります。つらい時もありますがそれ以上に、喜びや感動を2人で味わえる瞬間が、自分を突き動かします。それを経験すると、また頑張ろうと思います。 東京オリンピックを目指す気持ちは、まだ正直100%じゃない。悩みもあります。オリンピックは簡単なものではないし、腹をくくらないといけない。1人ではない。サポートしてくれる人とも真剣に向き合わないといけません。それらも含め、うまくいった時に、サポートしてくれる方、全員との喜びの瞬間がたまらないです。またあの気持ちを味わいたい、強くなりたいと思い、ここまでやってきています。 |