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人見絹枝 生誕100年-その生涯-
- はじめに
- 生い立ちと第2回世界女子競技大会
- オリンピックアムステルダム大会
- 第3回世界女子競技大会
- 人見の死
- 生誕100年記念特別展示
1.はじめに
今年2006年もフィギュアスケート、レスリングをはじめさまざまな競技で 日本の女性スポーツ選手の活躍が目立ちましたが、来年2007年1月1日は日本の女性スポーツの 先駆者である人見絹枝の生誕からちょうど100年です。
人見のスタート
人見は1920年代から1930年代にかけて陸上競技で活躍し、生涯を通じ様々な種目で数々の日本記録・世界記録を出しました。
主な記録を挙げると次のとおりとなります。
(「日本陸上競技連盟七十年史:日本記録の変遷」に基づく)
人見の走幅跳
2.生い立ちと第2回世界女子競技大会
人見は、1907年、岡山県の福浜村(現在は岡山市の一部)に生まれました。
子ども時代は魚とりが大好きな活発な子で、算数が大の苦手でした。
県立高等女学校(現在の県立岡山操山高校)に入学、テニス部で活躍していましたが、県の中等学校陸上競技大会で、走幅跳の日本記録を破ったことが陸上競技の道へ進むきっかけとなりました。
高等女学校卒業後、二階堂体操塾(現在の日本女子体育大学)に入塾、帰省時に陸上競技を本格的に学び、県の大会で 三段跳の世界記録を破ります。その後、京都市立第一高等女学校(現在の市立堀川高校)の教諭、再び二階堂体操塾を経て、大阪毎日新聞社に入社、その数ヵ月後、国際女子スポーツ連盟主催の第2回世界女子競技大会(通称女子オリンピック 1926年/スウェーデン・イエテボリ)に単身出場します。
初の国際大会でしたが、各種目で好成績をあげ、特に走幅跳では世界新記録で優勝し、個人総合優勝を 達成、さらに国別得点ではたった1人で15点を出して日本を参加8か国中5位とし、世界にその名をとどろかせることとなりました。
ちなみに国別得点1位のイギリスは25選手で50点でしたから、人見の活躍がいかにずば抜けていたかが分かります。
帰国後、人見はこの結果に慢心することなく、日本短距離界のトップ選手谷三三五から当時では珍しい専属コーチングを受けるなど さらに練習を積んで技術を磨き、また、双子の姉妹スプリンター寺尾正・文、橋本静子らよきライバルたちとの切磋琢磨を経て、100mの世界新記録(12秒2)をはじめ数々の記録を達成します。
人見と寺尾姉妹(左が正、右が文)
3.オリンピックアムステルダム大会
オリンピック第9回アムステルダム大会(1928年/オランダ)では女子陸上競技が初めて実施されることになり、人見は日本選手団初の女性選手として参加します。
寺尾姉妹や橋本とともにリレーチームを組んで参加することを強く願っていましたが、それもかなわず、たった1人の女性選手でした。
世界記録を出した得意の100mに出場しますが、ノーマークだった選手2人に追い抜かれてまさかの準決勝敗退を喫します。
100m予選での人見
「100mに負けました!といって日本の地を踏める身か!踏むような人間か!何物かをもってこの恥をそそぎ責任を果たさなければならない。」
「あとに残されたものは800mでありました。」
「もちろん800mを走るだけの力は持っていない。出場するだけ恥になる。しかし私はもう勝つ負けるは問題ではなかった!走るだけ走ってみよう。800m走り抜けたらどうせ倒れてしまうに決まっているが、倒れるまでやってみようと決心した。」
(人見の自伝「スパイクの跡」より)
このような悲壮な覚悟で急きょ未経験の800mに出場を決めました。
100mのついでにという考えで、たまたま出場登録していたのが不幸中の幸いでした。
竹内廣三郎監督や他の選手たちのバックアップもあって800mの走法や作戦を頭に入れた人見は、悪いタイムながらも予選を通過しました。
そして9人で争われる決勝、6位につけた人見は最後の1周に入ると3人を追い抜き、1位のラトケ(ドイツ)、2位のゲントゼル(スウェーデン)を追いますが、足の疲労はピークに達します。
その時、人見は竹内監督のアドバイスを思い出しました。
「練習をしていないあなたは誰よりも足が疲れてくるに決まっている。しかしその時は手を振ることを忘れるな。手さえ振れたらもう大丈夫、足もそれについて行くから、それ一つを忘れるな!」
(前掲書より)
手を振りにかかった人見はゲントゼルを追い抜き、後は記憶の無いまま、3位時点では15mだったラトケとの差を2mまで縮め、それまでの世界記録を破る2分17秒4でゴールイン、見事銀メダルを獲得、日本初のオリンピック女性メダリストの誕生です。
ゴールインとともに気を失った人見は意識を取り戻すと、日の丸が掲揚されているの見て感涙にむせびました。
「ああ!これで幾分の責任を果たしたのだ!よく走れた!もう思うこともない。果たしえた心の喜びにとめどもなく涙が出ます。」
(前掲書より)
人見、800mで銀メダルを獲得(右は優勝したラトケ)
4.第3回世界女子競技大会
オリンピックから帰国した人見は、心身の疲労の蓄積、100m敗戦のショック、そして、800mで銀メダルを獲得した安堵から、現在でいうところの「燃え尽き症候群」になりかけ、引退も考えるようになります。
悩む人見の元に、国際女子スポーツ連盟会長のミリア夫人(世界女子競技大会の開催やオリンピックでの女子陸上競技の実施要請など女性スポーツの国際的普及に尽力)から手紙が来ます。
「あなたは何というお馬鹿さんでしょう!22や23で年寄りだなんて」
「あなたの技術が今最高に達せんとしていることをよく知っています。」
「今まで日本の女子スポーツ界に、あれだけ尽くしておきながら、 今スポーツ界から退くなどと言うことは、大きな罪であると思いませぬか?」
「あなたの活躍の舞台は次々と広がって行っています。元気を出しなさい。」
(人見の自伝「ゴールに入る」より)
ミリア夫人の厳しくも温かい励ましに感激した人見は競技への意欲を取り戻したのでした。
「今まで5ヶ月にわたってめいり込んでいたファイティングが、力強い反発をもってグングン猛烈に頭をもたげてきた。」
「私は救われたのだ!」
「悩みつづけているとき、前途に希望のないとき決して進歩はしない。」
(前掲書より)
人見の次なる大きな目標は、第3回世界女子競技大会(1930年/旧チェコスロバキア・プラハ)に、オリンピックでは実現できなかった日本女子選手団を参加させることでした。
日本女子スポーツ連盟とともに、選手育成や派遣費用調達のための寄付の要請や募金活動に奔走し、苦労の末、後輩5選手とともに念願の日本女子選手団としての大会参加が実現しました。
大会では、人見は2大会連続の個人総合優勝は逃したものの(2位)、走幅跳びの大会2連覇を達成し、国別得点では13点(内人見の得点は12点、400mリレーで1点)をあげて参加8か国中4位となりました。
しかし、この結果に日本の人々は不満だったことを知り、人見は非常に悲しい思いをしました。
「そうか、あれだけやっても世間の人々はまだ満足してくれなかったのだ・・・」
「私はもう立っていられない。ベッドの中にもぐって部屋の鍵を閉めると大声で泣き出した。」
「誰が何といってなぐさめてくれても、もう私はこの傷つけられた心はもとのようにならない。」
(前掲書より)
人見ら日本女子選手団
5.人見の死
世界女子競技大会が終わると、選手団はそのままヨーロッパ各地の大会を転戦し、帰国後、人見は支援への感謝のため各地を講演旅行します。しかし、多忙による過労のためか、翌1931年4月に結核に倒れました。
そして、闘病もむなしく、日本の女性スポーツの礎として身命をささげた24年7ヶ月の短い生涯を閉じました。
その日、8月2日は奇しくも3年前、彼女がアムステルダムで銀メダルを獲得した日でした。
病に倒れる直前の人見
自伝「ゴールに入る」は日本女子選手団の帰国で結ばれていますが、そこに書かれた文章は、同書の出版後、半年もせずに人見がこの世を去ったことを思うと哀しく響きます。
「さようなら!皆さん!さようなら!皆さん!」
「さようなら!お元気で!御苦労でした!」
「ああ、すべて終わったのだ。さようなら!」
当時の女性スポーツ専門誌「女性体育」人見絹枝追悼号(当館所蔵)
プラハには彼女の死を悼む記念碑が現在でも建っており、そこにはこう書かれています。
「愛の心をもって世界を輝かせた女性に感謝の念を捧ぐ」
プラハの人見絹枝記念碑
人見に続く日本の女子陸上競技オリンピックメダリストの出現は、同じ岡山県出身で人見を敬愛する有森裕子がバルセロナ大会(1992年/スペイン)の女子マラソンで銀メダルを獲得するまで64年もの歳月を待たなければなりませんでした。
6.生誕100年記念特別展示
人見の出身地岡山県では彼女の生誕100年を記念して、県総合グラウンド競技場(桃太郎スタジアム)の 「遺跡&スポーツミュージアム」で特別展示が行われています。
(2006年12月22日(金)~ 2007年1月21日(日))
当館所蔵資料を含め、人見にまつわる様々な貴重な資料が展示されているので、皆様もご覧いただければ幸いに思います。
(文中敬称略)
第3回国際女子競技大会金メダル(走幅跳)
(当館所蔵・上記特別展にて展示)
人見の銅像
(岡山県総合グラウンド) |
遺跡&スポーツミュージアム特別展 |
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