JISS-worker

ジスワーカー

JISSのスタッフ、勤務経験者がJISSでの仕事を紹介します。


名前: host 作成日: 2021/02/22 14:53
JISS-Workerの概要説明です。

投稿者: host 投稿日: 2016/10/04 15:53

国立スポーツ科学センター スポーツ科学部 契約研究員
2010年3月 大阪体育大学大学院博士前期課程 修了
2010年4月~2012年3月 学校法人浪商学園 大阪体育大学 健康福祉学部 教務事務補佐
2012年4月~2017年3月 国立スポーツ科学センター スポーツ科学部 契約研究員

スポーツ心理学との出会い

奥野職員インタビュー写真

スポーツ心理学の道に進んだ経緯を教えてください。
私は、保健体育の教員免許を取得しようと思って大阪国際大学に入学し、卒業するぎりぎりまで保健体育の教員になろうと考えていました。大学では、陸上競技部に所属してキャプテンを務めていたのですが、チームメイトとの関わりの中で「同じ出来事でも人によって捉え方が全然違う」ということがめちゃくちゃ気になって、メンタル面のことをもっと勉強したいと思うようになりました。それがスポーツ心理学を学ぶことになったきっかけです。でも、当時大学にはスポーツ心理学を専門に研究されている先生がいらっしゃらず、運動生理学を研究している先生に、スポーツ心理学で卒業論文を書かせてくださいと無理なお願いをして、ごり押しで指導していただきました(笑)。そして、その先生が、せっかくだからもう少ししっかり勉強してみてはどうかと、大阪体育大学でスポーツ心理学の業績を挙げられていた土屋裕睦先生をご紹介くださり、大学院への進学を勧めてくださいました。修士を終了してから教員になっても遅くないのではと言っていただいたこともあって進学を決めました。
大学院で研究を進めて、どんな方向に進みたいという考えになりましたか?
大学院でお世話になった土屋先生は、研究もさることながら、競技現場で選手をサポートすることに力を入れておられる方でした。研究グループとは別にサポートグループを作って研究成果を現場に応用する活動をやっておられたんですね。私は、その活動に参加してメンタルサポートのあり方やメンタルトレーニングの技法を学ぶ中で、大学院を出てもこんな活動を続けたいと考えるようになりました。研究も続けたかったですが、同時に現場で選手をサポートすることも続けたいと。
 それで、修士課程を修了した後は、事務補佐職員として2年間大学に残り、大学の仕事をする傍らで、学生が中心となって活動している心理サポートの実践グループに引き続き参加させてもらい、学生アスリートにメンタルトレーニングの指導をしたり、一対一で相談にのったりするような実践活動をしていました。その間、心理サポートによって選手にどんな変化があったかというようなことを研究論文としてまとめることもしました。
そのあとがJISSということになるわけですね?
はい、大学院での研究や実践の成果を活かすために大学教員になる道も考えたのですが、選手の合宿や競技会に長期的に帯同してサポートしようとすると、通常の仕事として講義を受け持ったり組織運営に関わったりする大学教員ではなかなか難しいとも考えていました。JISSでスポーツ心理のサポート活動に携わっていたOB・OGの方からお話を聞くと、やはりJISSは心理サポートに専念できる、しかもトップアスリートを対象に活動できるということがとても魅力的だと思いました。そのようなわけで、JISSの公募にチャレンジすることにしました。

JISSの心理サポートとは

そして今、やろうと思っていたことができていますか?
はい、トップアスリートに対する心理サポートをメインの仕事として任されているので、非常にやりがいを感じています。やはり現場と関わっていると、いつも知らないことに直面します。知らないことに出会って、それをどう捉えて対処するかを考えてやりとりしていくのは新鮮です。ただ、すごく難しいことでもあります。
具体的に、心理サポートというのは、どんなふうに進んでいくものですか?
心理スタッフの学術的な背景とか、キャラクターにもよると思うんですが、まずは、その選手がなぜサポートを必要としているかわからないといけないですよね。例えば「試合で緊張して困っているんです」という人がきたときに、「そういう時はこうしなさい」と教えて終わるのではなく、その人にとっての緊張とはなんだろうということを考えていくことになります。それを明らかにするには、スポーツ以外の場面のその人のこともわからないといけない。どんな場面で緊張するか、緊張するとどうなるかという質問をしていく中で、その人自身がどんな人なのかを考えていくことになります。そして、どんなことに困っているのか、なぜ困っているのかに目を向けて、どうしていけばいいのかなということを一緒に考えていきます。
選手は「これに困っています」と悩みをはっきりさせてくるものですか?
自ら来る人は、なにかしら困っていることがあると思います。誰かに紹介されて、あるいは連れてこられた人というのは、なぜ自分がここにいるのかあやふやなことが時々あります。そういう場合は、紹介された、連れてこられたことをどう感じているか、という会話から始めます。いずれにせよ、本人の中で困ったことがないままにサポートを続けることは難しいですし、逆に、困ったことが生じたときが、その人が変わりたいというタイミングでもあるので、それがサポートを始めるベストのタイミングだと私は思っています。誰かに連れてこられた人が、特に自分では問題を感じていないような場合がありますが、そういう時には、本人よりも連れてきた人の話を聞くことも大切なサポートだと思います。何が心配なのかとか。
合宿や試合に長期的に帯同するようなときは、どんなことを求められて行くのですか。
はっきりとした悩みや問題を抱えている選手がいるから、ということはあまりなくて、心理スタッフがいてくれると何か困ったことが出てきたときに助かるなあという感じで依頼されることが多いですかね。例えばジュニア世代の合宿というような、思春期特有の課題がある程度予想されるようなときに、そこにきちんと対応したいというコーチの思いがあるとか。でもたいていの場合、特にナショナルチームなどになると、やはり課題はその時その時で変わっていくものだと思います。ですから、現場に出て行って何をすべきなのかが見定められないと、ただついて行くだけの人になってしまいます。かといってズカズカと土足で入っていくような態度だと余計な不安を生じさせてしまいます。チームに帯同してサポートするときは、チームを一人の人間として捉えて、自分に求められていることは何かを考えるようになりました。これはJISSでのサポートで学んだことです。チームに帯同してサポートをするということについて、教科書のようなものはありません。私たちの仕事は、何かを指導するとか何かを提供するといったような目に見えることをすることは少ないので、自分がどのような立場、役割でここにいるのかということを常に自分でも考えますし、チームにも考えてもらうようにしていかないといけないと思っています。
どうやって自分の役割や立場に関する考え方をチームの方と共有するのですか?
実際にやっているのはとても地味なことで、現在のチーム状況をどう捉えているかをチームスタッフに聴いたり、それに対して自分の考えを伝えたりというコミュニケーションを定期的に行うというものです。ただし、そういったコミュニケーションは、選手やコーチに対する理解や、チームのグループダイナミクスなどに関する専門的・学術的知識に基づいて行いますから、ただの話好きなおばちゃんのようには振る舞ってないと思います(笑)。
失敗したこと、難しかったことは?
現場の方からは、心理サポートのおかげで上手くいったと評価してもらうことはありますが、もし自分が関わってなかったらもっと上手くいったかもしれません。そういった、プラスの可能性もマイナスの可能性も常に考えるようにはしています。選手は競技でよいパフォーマンスが発揮できるようにと日々変化していますから、それを私が邪魔をしないように、意味のある伴走者になるということをすごく意識しています。例えば、私が大学に所属していた時のサポート対象は、もちろんスポーツ選手ではありましたが、競技以外の学業や就活なども意識しつつサポートをしていました。でも、JISSで関わっているトップアスリートは、競技に人生をかけている。競技がその人の全てなんですね。ケガをした選手に「ゆっくり休んでください」とは簡単には言えない。休んだら人生が終わりなんですっていう話になる場合もありますから。そういう、誰かが人生をかけてやっていることに関わるということは難しいですね。それがやりがいでもあるのですが。
スポーツ心理学の可能性はどんなところにあると思いますか?
スポーツ心理の専門家がチームに入ると、視点がひとつ増えると思うんです。例えばやる気がないように見える選手がいたとします。指導者の立場だと、どうすれば彼にやる気を出させることができるかと考えますよね。あるいは、やる気のない人がチームに一人いるとチームに悪影響を与えるから外した方がいいんじゃないかとか。そこに私たち心理の人間が関わると、この人のやる気がないということの意味はなんなんだろうとか、やる気がないことの背景はなんなんだろうということを考えます。それによって対応の選択肢が増えるじゃないですか。今はやる気がないように見えても、その後の重要な場面でいい働きをするとしたら、今外すのはもったいない。でもチームに悪影響を与えるならどうするか。もし今外すのがもったいないならば、今は周囲がこんな関わり方をしたらいいんじゃないですか?というアドバイスができます。そういう視点が増えるというのが、今の私の仕事の説明としてはしっくりきます。数年後に、あの時に彼をチームから外さなくてよかったとなるかどうかという話ですから、すぐに結果の出る話ではありませんが。
生涯発達や心理的背景からいろんな可能性を考えながらその人の行動を言語化するというのが私たちの仕事のひとつなので、やる気がないように見えるというその行動も、例えば「何かしら訴えたいことや抱えていることがあるんだろう、しかしそれが言葉にならないので行動に表れるのだろう」と理解したりするんですね。その言葉に出ていないのはこういうところかもしれないというのを翻訳するのがひとつの仕事だと思います。翻訳するだけでも、そのやる気のない態度にヤキモキさせられていた周りの人が少し理解できるようになって関わり方が変わるのではないか。それによってまた選手も変わってくるかもしれない。そういうやりとりのきっかけになれるというのが私たちのいる意味のひとつなんじゃないかなって思います。それもJISSで四年間、現場を目の当たりにして初めて気づいたことです。

次のステップへ

奥野研究員講演の様子

今後の目標、夢はなんですか?
もし、スポーツ心理学の教育に携わるとしたら、トップアスリートに関わった経験に基づいてスポーツ心理学の基礎を教えていきたいですね。あるいは、今と同じようなトップアスリートへのサポートを続ける機会が得られるのであれば、今、競技現場で選手やコーチから学んでいることを踏まえた上で、もっとサポートの内容を高めていきたいです。あとは、今、JISSのスポーツ心理グループとスポーツ心理学会とでネットワークをつくっていこうという動きがでてきているので、そのお手伝いも続けていきたいですね。心理サポートを必要としている選手はたくさんいますが、競技拠点によってはなかなかサポートを受けられない場合もあるので、協働できるサポートスタッフを各地に増やしていきたいと思います。
なにか職業病みたいなものはありますか? 例えば日常生活の中で他人の心が読めて気になってしまうとか…
あの…私たちは超能力者じゃないので、人の心が読めたりなんてしないです(苦笑)。みなさん、誰かと会話している時には、この人はどんな人なんだろうと考えると思うんですよね。基本的には私も同じように考えながら会話をしますし、普通の会話の中でわかることはそんなに多くないです。そういう点でいえば、心理の専門家というのは、「ていねいな会話に基づかないと、その人のことはわからないということがわかっている人」だと思います。ちょっと話しただけでいろんなことが分析できたりなんてしません。この人オープンな人だなとか、この人は他人と距離を置く人だなとかは感じますが、それはもちろん、普通の人が感じるレベルです。ただ、なんで距離を置くんだろうとか、それにはどんな意味があるんだろうという視点を持つと、そのための会話をきちんとすることになります。日常会話とは違う、訓練されたコミュニケーションがそこでは必要になりますね。
奥野さんみたいに、スポーツ心理学を学んでアスリートを心理面からサポートする仕事をしたいと考えている学生さんたちが今増えていると思うんですが、そういう人たちが学生のうちに経験しておいた方がいいと思うことはありますか?
競技をやっているのであれば、まずは競技を一生懸命やること、そして、競技をする中で悩むことだと思います。競技経験なしにアスリートの心理的なサポートをしたいという人も、まずは自分の心について疑問をもつ、自分の心に興味を持つということが大事かなと思います。

投稿者: host 投稿日: 2015/09/09 15:14

国立スポーツ科学センター スポーツ科学研究部 トレーニング指導員
2008年6月~2009年3月 Singapore Sports Council
2009年4月~2013年3月 日本スポーツ振興センター マルチサポート戦略事業スタッフ
2013年4月~2017年3月 国立スポーツ科学センター スポーツ科学研究部 トレーニング指導員

業界ではかなり珍しい博士号取得者

河森職員インタビュー写真

JISSのトレーニング指導員になるまでの経歴を教えてください。
ストレングス&コンディショニングコーチ(以下S&Cコーチ)としては、かなり珍しいと思います。同じ職種の方の中でも、博士課程まで修了する人は少ないので。私自身、最初はどちらかというと研究に興味があって、研究者になろうとして、この道に入りました。
学生時代はどんなことを学ばれたんですか?
大学は日本の大学でスポーツ科学を専攻し、筋生理学やバイオメカニクスのゼミに入っていました。
スポーツ科学を専攻した理由は?
中学、高校では部活でバスケットボールをやっていましたが、アスリートとして続けていけるほどの才能はなかった。それでもスポーツは好きで何か携わることができないかと考えていた時に、テレビでS&Cコーチの存在を知ったんです。当時、プロ野球でS&Cコーチをしていた※立花龍司さんという方がいて、彼の特集をテレビで観て「面白そうだな」「こういう関わり方があるんだ」と思ったことが最初のきっかけでした。
ただ、最初はそういう職業はいわゆる‘トレーナー’だと思っていました。一般的に言われる‘トレーナー’はアスレチックトレーナー(以下AT)でリハビリがメイン。それとは別にもう少し積極的にトレーニングに関わるS&Cコーチがいるということを知ったのは大学に入ってからで、そこから詳しく勉強を始めました。 ※S&Cコーチとして千葉ロッテマリーンズ、ニューヨーク・メッツ、東北楽天ゴールデンイーグルス等で活躍。
大学卒業後は大学院に?
学部生時代に読んだ論文の著者の先生に師事したいと考え、その先生がいるアメリカの大学院を受けました。当時はS&Cコーチを目指していたわけではなく研究者を志していたんですが、自分の専門分野が実践的な分野で、ある程度現場のことを分かって研究しないと、実践に則していない使えない研究になってしまうなと。アメリカは大学スポーツが盛んなので、大学院にいれば研究をしながら現場での実践も積めると考えたんです。
そもそもS&Cというコンセプトはアメリカで生まれたものです。日本ではS&Cコーチとしてフルタイム勤務している人の数はまだまだ多くありませんが、アメリカでは大学レベルのアマチュアスポーツでもフルタイムのトレーニング専門のスタッフがいて、S&Cコーチの地位が確立されているんです。
アメリカでの大学院生活はいかがでしたか?
陸上部が強い大規模大学だったので現場での経験も積めると期待していたんですが、入学前に師事したいと思っていた先生が別の大学に移ることになってしまって。幸い、先生から「一緒に来ないか」と誘われて別の大学院に入学したんですが、対してこちらはスポーツのレベルは2部で規模の小さいところでした。実践という意味では決して満足はできませんでしたが、研究や勉強の面ではかなり色々と経験させてもらいました。
修士以降はどうされたのですか?
アメリカ留学を考えていた頃、修士で師事した先生とは別に「この人のところで研究したい」という先生が何人かいて、そのうちの一人の先生が、私が修士課程にいる間に母国のオーストラリアの大学に帰られたんです。アメリカの学会等でその先生とは直接お話しをして魅力を感じていて、その大学には博士課程のプログラムがあったのでコンタクトをとり、渡豪しました。

論文に勝る、現場で得られる興奮が進路を変えた

修士、博士と進む中で、具体的にどんなことを研究したのですか?
S&Cの分野の研究と一言に言っても、筋力やパワートレーニングメインで取り組む人もいれば、持久力メインの人もいる。指導する立場としては、当然両方解っていなければいけないけれど、研究者としてはある程度分野を決める必要があります。私は筋力、パワーのトレーニングや測定をメインにしたいと考えていました。さらに、研究する際の手法には生理学的手法とバイオメカニクス的手法がある。自分はどちらかと言えばバイオメカニクス的な手法を使って筋力やパワーについて研究したかった。単純な意味での‘筋力’ではなく、‘パワー’に興味があったんです。
筋力とパワーは違うんですか?
‘筋力’には色々な定義がありますが、一般的に最大筋力は、スクワットなどのエクササイズで1回だけ持ち上げられるバーベルの重さで測定される能力を指します。でも、実際の競技現場では、力を発揮する時間は限られていて短時間で大きい力を出さなければいけない。それに、高速で動きながら発揮する力と、時間をかけてそれだけに集中して発揮する力はそもそも違う。最大筋力はパワー発揮に必要な能力でありそのベースとなる重要な要素ではありますが、それだけでは実際のスポーツのパフォーマンス向上には直結しません。
実際の競技では、重いバーベルを時間をかけて持ち上げるようなタイプの筋力発揮ではなく、瞬間的に大きい力積を発揮しなければいけない。爆発的な力、エクスプロシブパワーの向上や測定が現場では必要だと考えていて、その分野で世界トップクラスだったのが、前述のオーストラリアで師事した先生でした。
元々は研究者を志されていたとのことですが、現場でやりたいと考えるようになったきっかけはどんなことですか?
大学院時代には、トレーニング効果を調べる研究でフィールドホッケーの選手を被験者で使わせてもらうなど、色々な競技の選手のトレーニングに関わらせてもらいました。そういった経験の中で、一つの研究を終えて論文を書いて発表するよりも、トレーニングをしてアスリートの足が速くなるとか筋力が上がるとか、そっちの方が嬉しいと感じるようになって。論文がアクセプトされた時も当然嬉しいんですが、どちらかというと喜びよりも「やっと終わった…」という安堵感の方が大きい。でも、選手のパフォーマンスや体力が上がった時は「うわ~~~~!」っていう喜びで、そちらの方が興奮度が高かったんですよね。
それから現場に方針転換されたんですね。
S&Cコーチとしてやっていきたいとは思いましたが、大学院博士課程までの経験が無意味になるのはもったいない。博士までの知識を活かしながらS&Cコーチができる職場を考えた時に、国や州のスポーツ科学研究機関ならば研究にも関わりつつ現場もできるかなと。国や州の機関を探す中で、Singapore Sports council(現Singapore Sports Institute)が募集していて、縁あって採用されました。
シンガポールではどんなお仕事をされていたんですか?
S&Cコーチととして、強化担当部門でバドミントン代表を担当しました。男女シングル、ダブルスのトレーニングプログラムを作成し、エクササイズを指導する。今と同じような仕事をしていました。その後、家庭の都合で帰国することになり、日本に戻ってきました。
帰国されてからJISSに来られたんですね。
採用当初はマルチサポート事業のスタッフとして、トレーニング指導だけでなく映像サポートもやっていました。平成25年からJISSのトレーニング指導員になりました。

競技の成績には一喜一憂しない

河森職員インタビュー写真

現在のJISSでの業務を教えてください。
大きく分けるとトレーニング体育館の施設の管理・運営業務と、アスリートのトレーニング指導があります。
トレーニング体育館の維持・管理・運営は文字通り館内のメンテナンスや掃除で、マシーンのチェックや器具の購入、調整等があります。アスリートのトレーニング指導では、選手個人からの依頼の場合は選手にカウンセリングをして要望、スケジュール、目標を伺います。チーム単位で依頼があった場合は、コーチや強化担当者に話を聞いた上でトレーニングプログラムを作ります。実際にプログラムを実施する際は、エクササイズのフォームを教えたり、必要に応じて体力測定も行います。その他にも色々な役割が割り当てられていて、私はリオデジャネイロオリンピックのサポートハウスの担当なのでその関連の仕事や、海外からの視察の対応をすることもあります。
JISSで働くやりがいとは?
レベルの高いアスリートの指導ができるのが最大の魅力だと思います。競技のレベルというより、本人のやる気。やる気のある人のトレーニングをできるのが最高のやりがいでですね。
もっと細かい話だと、アスリートがそれまでできていなかったことができるようになると、嬉しいですよね。それまでできていなかった正しいフォームができるようになった、身体が硬くてスクワットで全然しゃがめなかった人がしゃがめるようになった……。細かい日常的な変化はダイレクトに嬉しいです。
大きい大会で選手が好成績を出せば、もちろん嬉しいんですが、そこで難しいのは、良い成績だからといってトレーニングが成功したとは限らないし、あまり良い成績を残せなかったからといってトレーニングが悪かったというわけでもないことなんです。好成績は素直に喜びますが、喜ぶ自分と冷静に判断して今後にどう活かすかを考える自分がいる。競技の成績については一喜一憂しすぎないようにしています。

トレーニングに関することは、専門家を信じてほしい

河森職員インタビュー写真

JISSでの失敗や辛い経験はありますか?
トレーニング指導員としては、「こういう目的でトレーニングがしたい」という選手やチームの要望があって、それを叶えるための手段としてトレーニング方法を決めるやり方が望ましい。ただ、最近は様々な情報が溢れているので、例えば「体幹トレーニングをしてください」と手段ありきで来る人もいる。最初のカウンセリングでしっかりと話を聞いて、「そもそも何がやりたくて体幹トレーニングなのか?」は探るようにはしているんですけど、中にはその根幹の部分があやふやな人もいる。
あるいは、自分の抱えている問題の解決方法として、体幹トレーニングが適切ではなく、もっと別の解決策がある場合も多い。そういう時は「今のあなたにはそれは不要で、こちらのトレーニングが必要です」ということを丁寧に説明しようと心がけてはいますが、「体幹トレーニングがしたい」という手法ありきで来た人にすると、自分のやりたいトレーニングができないことに納得できない場合もあるでしょうし、継続したトレーニング指導が困難になることもあります。
それはもどかしいですね。
自分がフリーのパーソナルトレーナーであれば、クライアントの要望どおりのものを与えるのもありだと思うんです。ただ、今はJISSという国際競技力向上のための施設で働いているので、判断基準は「競技力向上に繋がるかどうか」だと考えています。アスリートが望んでいることが競技力向上に繋がらないのであれば、丁寧に説明をして納得いただいて、あくまでもその選手の競技力向上に繋がることをやるべきだと思っています。
コーチや選手とのコミュニケーションで気をつけていることはありますか?
トレーニング指導員やS&Cコーチとしてできることと、競技コーチができることは違うということを意識してはいますね。私たちは体力を向上させることはできるし、ケガのしにくい身体を作ることもできるけれど、技術を教えることはできない。
例えば競技の中の一つの動きに対して、その動きをするために必要な体力、筋力、パワーが足りないのであれば我々が鍛えてポテンシャルを上げることはできるけれど、実際の動きを教えることはできない。私たちができるのは基礎部分の向上で、基礎を上手く使ってよりよい動きにするのは競技コーチの役割だと考えています。この部分にトレーニングの人間が介入すると、競技の動きそのものに単純に負荷をかけて繊細な技術を崩してしまったりして、マイナスの方が多いですね。

研究者としての訓練が活かされている

河森さんのような仕事に就きたい若い方へのアドバイスはありますか?
……(少し沈黙)。まず、「考え直したら?」って言うと思います(笑)。S&Cコーチを職業にしてご飯を食べていける人は一握りだと思うし、不安定だし、なったからといって大金を稼げるわけじゃないし、好きじゃないと厳しい。やりがいはありますし大好きな仕事ですが、現実的に厳しい世界であるということはお伝えしたい。その上でやりたいという方がいるなら、スポーツ科学関係の大学の学部、学科で学ぶこと、CSCS(全米ストレングス&コンディショニング協会公認ストレングス&コンディショニングスペシャリスト)の資格を取ることはお勧めします。
CSCSは世界的に通じるスタンダードな資格なので、取得して損はないです。僕は大学4年の卒業直前に取ったんですが、CSCSの受験資格に大学卒業見込みが条件としてあるので、そういった面でも可能ならば大学で学ぶことをお勧めします。
大学以降については、極端な話、研究なんかやったことなくてもS&Cコーチとしてやっていけるんです。ただ、科学的知見をトレーニング指導に活かしたいならば、論文を読めないと活かせない。論文をちゃんと読むためには、自分で研究した経験があるのとないのとでは、全然感じ方が違う。そこまでのレベルを目標にしているならば、博士課程までいく必要はないと思いますけど、修士で一度自分で研究をやってみて論文を書き上げるプロセスを経験することは後々に活きると思います。

河森職員インタビュー写真

今後の目標、将来の夢を教えてください。
短い目標としては、来年の夏季オリンピックが一つの区切りだと思っているので、今はリオの出場権をかけて頑張っているアスリートのポテンシャルをできるだけ上げることに注力して、出場が決まったらオリンピックを最高のコンディションで迎えられるように支援したい。冬季種目の選手も担当しているので、できるだけ競技力向上に尽力して、ケガのしにくい身体作りをサポートしたい。これが今後2年間くらいの目標です。
JISSの契約は4年なので、JISSを出た後はチーム専属のS&Cコーチをやりたいという想いがあります。これまで担当してきた選手やチームは個人競技がほとんどでしたから、チームについてサポートしてみたいですね。それから、自分の博士まで修了したS&Cコーチという経験や知識を広めたいという気持ちがあるので、セミナーや講演等、何かしらの形で情報を発信していきたいですね。
最後に、職業病はありますか?
「細マッチョ」という言葉が許せないですね。細かったらマッチョじゃないだろう!と(笑)

投稿者: host 投稿日: 2014/02/08 16:05

独立行政法人日本スポーツ振興センター 国立競技場場付主幹
  2001年10月~2002年3月 JISS運営部事業第一課
  2002年  4月~2003年9月 JISS運営部管理課
  2003年10月~2005年9月 JISS運営部施設管理課
  2005年10月~2006年9月 JISS運営部サービス事業課
  2006年10月~2008年3月 NTC設置準備室
  2008年  4月~2012年9月 JISS運営部施設管理課
  2012年10月~2013年6月 JISS運営部事業課

国立競技場の事務所にて


1.   現在の所属、業務内容

私は、2013年7月1日にJISS・NTC運営部事業課から、国立競技場へ異動になり約半年になります。
皆様もご存知のとおり、アルゼンチンのブエノスアイレスでのIOC(国際オリンピック委員会)総会で、2013年9月7日に2020年の夏季オリンピック・パラリンピックが56年ぶりに東京に決定しました。そのメイン会場として、国立競技場が脚光をあびることになりました。また、オリンピックの1年前の2019年のラグビーワールドカップの主会場として、新国立競技場の建設計画が進められています。
現在の私の業務は、新国立競技場建設に関連して、現在の国立競技場の解体、日本スポーツ振興センター(JSC)本部庁舎の解体に伴う仮設庁舎の建設および平成24年度補正並びに平成25年度施設整備工事等に関わらせていただいております。
現在の職場は、国立競技場の建物が解体されるため、現員の補充がままならず縮小の一途をたどっているようで、業務量としては、一人で賄いきれないほどです。これは、どこの職場も同じかもしれませんが、非常に厳しい状態となっています。


 2.   なぜ日本スポーツ振興センターで働こうと思ったか

私が、日本スポーツ振興センターの前身である国立競技場に就職したのは、35年以上も昔の昭和53年4月でした。なぜ国立競技場だったのかと考えると、スポーツや芸術に関係したところを探していた時に、求人案内にあった「国立競技場」という文字を目にしました。第18回オリンピック東京大会が開催されたのが、1964年の秋で、当時私は7歳でした。テレビで見たオリンピックの入場行進、最終聖火ランナーの聖火台に点灯する姿、青空に描かれた五輪のマーク、天皇陛下の開会の宣言等々記憶に残っている数々のシーンが、国立競技場で働きたいという強い思いとなったように記憶しています。
入社当時は、現在の本部庁舎の位置に、鉄筋コンクリート造2階建ての庁舎があり、総務部施設課に配属されました。総務部は、総務課、人事課、会計課と昭和53年度から始まった国立霞ヶ丘競技場の施設整備工事のために新しくできた施設課の四つの課で組織されていました。


 3.   JISSでの業務内容とJISSで心に残っているもの

スポーツ科学・医学・情報の総合的研究を行い、我が国のスポーツの国際競技力向上に寄与することを目的として、国立スポーツ科学センター(JISS)が平成13年4月に設置され、10月の開所と同時に国立競技場からJISSの運営部事業第一課に異動してきました。
JISSでの最初の仕事は見学者の案内でした。浅見初代センター長の説明で館内を案内する役目でしたが、私もJISSの建物を見るのは初めてなので、案内するどころではありませんでした。センター長には申し訳ありませんでしたが、見学者に紛れてセンター長の説明を聞いて館内を見学させてもらいました。
最初の配属先となった事業第一課は、各研究部との連携・調整、JISS各施設の利用申込・受付、低酸素合宿室の利用・受付を行うところでした。
事業第一課を半年で異動となり、平成14年4月に運営部管理課に移りました。管理課での仕事は、JISS本館、JISS設備棟、西が丘サッカー場、東西庭球場、運動場及び戸田艇庫等の保守管理及び整備の企画及び立案に関する業務で、言わば裏方としてJISSの施設・設備全般に関わる重要な仕事を行うところです。
平成15年10月の独立行政法人日本スポーツ振興センター(NAASH)の設立を経て、ナショナルトレーニングセンター(NTC)設置準備室が設置されることに伴う組織の変更があり、平成17年10月運営部サービス事業課(事業課と管理課が統合)に異動するまでの3年半を管理課にお世話になりました。平成18年10月にナショナルトレーニングセンター(NTC)設置準備室に移動するまでの1年間をサービス事業課で施設管理課係として過ごし、平成20年4月にNTCが完成したことにより、国立スポーツ科学センター・ナショナルトレーニングセンター運営部施設管理課に戻りました。そして、平成25年7月に国立競技場へ異動するまで、実に11年9ヶ月の長きに渡りJISS・NTCで働くことができ、その間JISS科学・医学・情報研究部が主催するスポーツ科学会議の会場設営(JISS3階研究体育館)、NTC中核拠点施設の建設(陸上トレーニング場、屋内トレーニング施設、アスリートヴィレッジ等)、JISS施設改修工事(シンクロプール、フェンシング場、リハビリテーション、スプリンクラー設置等)、MRI・CTの更新、アーチェリー実験・練習場、ハイパフォーマンスジム及び風洞実験棟の整備工事等々に関わることができたことは、ひとえにJISS・NTCの皆様のご指導、ご協力のおかげだと感謝しております。
JISSに在籍中で心に残っているといえば、やっぱり平成23年3月11日(14時46分18秒)の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)です。その日は、NTCアスリートヴィレッジ南館の増築工事が完成し、建築確認検査を受ける日でした。検査官他建設関係者が現場事務所に集合し、私は、検査会場2列目の窓際の席で座って、さあこれから検査を開始しようとした時でした。仮設事務所が横に揺れはじめ、皆が一瞬静まり返ったかと思うと「地震?」という声が聞こえました。いつもの地震だろうと思っていたところ、段々揺れが激しくなり身の危険を感じたので外に出ました。ところが、地面が大きく左右に揺れて歩くことができないではありませんか。また、周りを見渡すと、「何んだこれは?」アスファルト舗装部がひとつの塊となって動いているではありませんか。その場にしゃがみ込み揺れが納まるのを待ちました。
このような大地震に遭遇したにもかかわらず確認検査は敢行されました。検査中余震もありましたが無事終了し、その後南館は完成し引き渡されました。
仕事以外で特に心に残っていることは、2004年アテネ、2006年トリノ、2008年北京、2010年バンクーバー、2012年ロンドンと5回ものオリンピックが開催され、JISS・NTCを利用する選手達の活躍が見られたことと、それにも増してそこに至るまでの過程で、厳しいトレーニングを黙々とこなしている姿が見られたことで、より身近に感じ応援することができました。これも裏方として施設・設備の保守管理に長く携わってきた賜物だと感じております。


 4.JISSで働くことを希望する人に対するメッセージ

JISSには、現在スポーツ科学研究部(リサーチユニット、ハイパフォーマンスユニット、情報処理・映像技術ユニット、研究・支援協力課)、メディカルセンター(スポーツクリニック、アスリートリハビリテーション)など専門性を有する部門と、運営部(運営調整課、会計課、事業課)など施設を管理運営するさまざまな部門があり、各部門が一丸となって公益財団法人日本オリンピック委員会(JOC)、各競技団体、スポーツ研究機関等と連携して調査・研究を行い、我が国のトップレベルの競技者及びチームの国際競技力の向上を組織的・総合的に側面から支援しているところです。
JISSのどの部門で働くにしても、各部門との連携を密にして目標に向かって一丸となれるチームとして、ひとりの力をみんなの力にできるよう努力してほしいと思います。


 5.日本スポーツ振興センターにできること(今後の展望)

新しい展望としては、2013年9月7日(日本時間8日)に、第125回IOC総会において2020年夏季オリンピック・パラリンピックの開催地が東京に決定したことによって、新国立競技場の建設計画が具体的に動き始めたように感じます。JISS・NTCに関してもオリンピックが決定したことにより、一層社会から注目される場所となり、文部科学省が「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会準備本部」を設置したことにより、将来パラリンピアンの練習の場をJISS・NTCに求められることがあるのではないかと考えられます。FIFAワールドカップも今年ブラジルのリオデジャネイロで開催され、日本代表も参加するなどオリンピック以外にもJSCが深く関わることがいろいろ出てくるような予感がします。このような関わりから、スポーツ以外にも元気を与えられるのではないか期待したいと思います。
改修前の国立競技場での作業の様子



投稿者: host 投稿日: 2013/11/20 15:47

桑井 太陽(スポーツ医学研究部 契約研究員、2002~2006年在職)

現職 :
①㈱サンイリオス・インターナショナル代表取締役
②サンイリオス桑井鍼灸治療院
③緑園ゆきひろ整形外科クリニックリハビリテーション科
④JISS非常勤職員
専門領域 : スポーツコンディショニング(特にアスレティック・リハビリテーション、鍼灸マッサージ治療)
最終学歴 : 東京衛生学園専門学校リハビリテーション学科

桑井太陽 

 

現在の職務内容

 現在は、大きく分けて3つの仕事をしています。まずは、院長として鍼灸治療院を開業していて、一般の方からアスリートまで対象を広く鍼灸マッサージ治療を行っています。2つ目は、理学療法士の資格を生かして、病院内の整形外科のリハビリテーション科に勤務しています。ここは病院内の一般整形外科なので、一般の方からアスリートまで、特に整形外科疾患の患者様に対して理学療法を展開しています。3つ目は、現場のアスレティックトレーナーとして、特に競泳の日本代表チームのトレーナーとして、海外遠征に帯同したり、国内合宿や通常練習のサポート業務を行ったりしています。この3つが日々の業務の大きな軸です。

治療院と病院勤務では、一般の方はもちろんですが、アスリートに対しての治療も数多く行なっています。治療院では、スポーツ障害の治療、あるいはスポーツ障害を予防するための疲労回復のコンディショニングのために鍼灸治療を行っています。病院では、整形疾患スポーツ外傷・障害の患者様が多く受診する場所なので、JISSでは受診できないような選手に対応することも多いです。また、治療院では対象をアスリートに限定せず、一般の方にも対象に行っています。私の活動の基準は、一般臨床をベースにしてアスリートを診る、としています。自分の中の基本的なベースとして「一般の人を触れずしてアスリートを変えることはありえない」と考えているため、幅広く鍼灸治療を行っています。

競泳スタッフとしての活動は、2001年から日本代表チームのトレーナーをさせてもらっています。キッカケは15~6年程前からセントラルスポーツの競泳チーム(トップチーム)のトレーナーをさせていただいていて、そこの選手・コーチが日本代表であったことから、彼らが、私を日本代表のトレーナーに推薦してくれたことをキッカケに、代表のトレーナーになることができ、それから現在まで関わらせてもらっています。

学生時代(現職を志した経緯等)

学生時代は、中学生の頃からトライアスロンをやっていて、トライアスロンの競技の中で、自分自身がいろいろな怪我を負いました。その際、自身がリハビリや鍼灸マッサージを受けたという経験が、現職を志した根底にあります。この時の自身の体験から、今の仕事を意識するようになり、学生時代は自分の体験を仕事に生かす、その基盤となる時間だったと思います。

高校の次の進学先として、最初は鍼灸マッサージの専門学校に行き、そこから鍼灸の資格をとってトレーナーになりました。理学療法士になったのはそれから少し後で、まずは鍼灸マッサージとアスレティックトレーナーの資格を使って現場でトレーナーの経験を積み、その過程で理学療法士の資格を取得しました。

JISSで働く前の社会人経験

最初は、実業団のバスケットボールチームであるJBL日本バスケットリーグの三井生命のバスケットボール男子チームのトレーナーをしていました。そのチームが廃部になった直後に、Jリーグの横浜FCから声をかけていただき、3年間Jリーグのトレーナーをさせていただきました。横浜FCにいた頃は、チームの専任で仕事をさせてもらっていましたが、競泳のセントラルスポーツのトレーナーも兼任していました。実業団のバスケットチーム、Jリーグ、そして日本代表競泳チーム(競泳のセントラルスポーツ)、そんな経緯があります。

なぜJISSで働こうと思ったのか?

JISSの存在は昔から知っていましたが、当初は私が入れるようなところだと思っていなかったので、自分がJISSで働くというイメージは全くありませんでした。しかしいくつかの競技の選手のコンディショニングに関わる中で、競技復帰に関わる仕事というのは非常に興味があるなということを意識しました。そこにちょうどJISSの公募の話があったので、受けてみたわけです。

JISSでの業務内容

私は「水もの担当」と言われていて、競泳、水球、飛込み、シンクロ、あとは陸上の長距離等、いわゆる“タイム競技”の選手を多くサポートさせていただきました。時にはサッカーや柔道の選手もサポートさせていただきましたが、各スタッフに対してある程度専門分野を決めて業務を行っていました。

私が入った当初は第1期のチームだったため、研究テーマも全体で模索する段階でした。当時はまだ外に対して何かを発信できる段階ではなく、JISSの組織の中のリハビリテーションのチームとして、業務が円滑にまわっていくようなチーム作り・業務作りに参加させてもらったという印象があります。まずは組織作りを固めていく中で課題を見つけ、それを研究につなげるという流れであったため、当初は研究という意識よりは、リハビリの業務が上手く提供できるように、立ち上げの第1期のスタッフとして業務に関わっていきました。

また、出張で海外遠征に帯同することも多く、代表チームの遠征に帯同できたことは大変貴重な経験となりました。遠征先の業務は、JISS内での業務のように「モノが揃っていてスタッフがいる、ソフトもハードも充実している」といった建物内の環境とは異なります。モノがない、人がいない環境でも選手のコンディショニングを最高にもっていかなければいけない。それがスポーツ現場と建物内の業務との違いです。しかし、JISSでいろいろな競技の選手のサポート経験を積むうちに対応力がつくもので、スポーツの現場に行けば大変なことはありますが、そのような時こそ、普段JISSの業務により鍛えられているなという実感がありました。遠征先でも決して質を下げることなく業務を遂行できるよう、常にJISSでの業務で訓練されていると感じました。




JISSで心に残っていること

たくさんありますが、まず一つに私のいまの治療院のスタッフに、鍼灸マッサージ・アスレティックトレーナーを持っている元飛込のオリンピック代表選手がいるのですが、その選手とはJISSで知合っています。要するに私がJISSでサポートした選手が、私と同じ業界であるトレーナーの資格を取って、今一緒に働いているということです。ですから当時サポートしていた選手から目標のトレーナーとして見てもらえていた、それも一人ではなく二人いるのですが、そういうトップアスリートのセカンドキャリアにこの仕事を選んでもらえたことはJISSにいたからこそだと思いますし、トレーナーとして大変光栄に思います。

また業務外では、科学研究部のスタッフと知り合えたことはとても大きかったです。我々の仕事は職域が専門領域すぎるので、付き合いがどうしてもスポーツ医学スタッフに限定されてしまいがちですが、科学研究部のスタッフと仕事をしたり、飲みにいったりできたことは非常に良かったです。アスリートサポートの目的は一緒ながらも、他分野である彼らと話しながら情報共有・情報交換をできたことはすごく貴重な体験でした。

JISSの仕事を通して得たもの、成長したこと

理学療法士(PT)になろうと思った動機は、JISSに入ってからPTである松田先生と当時同期入職した富永先生等、仲間の影響を大きく受けたと感じています。以前からなりたかったPTにやはりなろうと決意できたのも、JISSで働けたことがキッカケです。また、他分野の科学部スタッフとともに競泳選手をサポートすることもありましたが、このような他分野のスタッフと連携して選手をサポートすることで、選手をサポートする上で本当にいろいろな分野のスタッフの協力があるんだということを肌で感じられ、とても良い経験になりました。

また、トップアスリートの意識を肌で感じられる環境だからこそ学んだこともあります。例えば、選手が怪我をしてマイナスの状態からさらにハイパフォーマンスに持っていく、そのプロセスに間違いがあってはいけないですし、目的が明確であるからこそ、我々がやるべきことにもブレがあってはいけない。より正確に仕事をしていく必要性を強く感じました。一般の人ですと怪我から復帰までの時間軸にゆとりがあるため、緩やかにモノを考える場合がありますが、できるだけ最大限に、効率的に、効果的に成果を上げていくという考え方はJISSのトップアスリートのサポートの中で学んだことになります。

JISSで働くことを希望する人に対するメッセージ

トレーナーの中でもJISSで働ける人はごく少数になりますが、私がJISSで経験した貴重な体験を自分のモノだけにするというのは非常にもったいないと思っているので、一人でも多くの人にチャレンジしていただいて、トレーナーとしてトップアスリートのサポートを経験してもらいたいという気持ちがあります。ただ、数多くのアスリートを支える仕事の中でも、我々は直接選手と関わる仕事なので、あまりミーハーな気持ちで来るのではなく、プロ意識を持って挑んでほしいと思っています。自分のプロフェッショナルな能力をどのように選手に還元していくのか、そういったことを冷静に考えられるスタッフであれば、JISSで仕事ができると思います。大事なのはプロ意識を持つことで、そうすればすごくいい仕事ができると思います。

投稿者: host 投稿日: 2013/05/29 16:39

榎木 泰介 (スポーツ科学研究部契約研究員・生化学分野、2004~2008年在職)

現職 : 大阪教育大学 教育学部 教養学科 健康科学専攻 講師
専門領域 : 適応生理学、運動生理生化学
最終学歴 : 東京大学 大学院 総合文化研究科 生命環境科学専攻

= 

 

はじめに

原稿依頼を頂き、JISSでの活動を振り返ると、たくさんの思い出が湧き出てきて、なかなか執筆に至りませんでした。それは昨日のことの様にも思え、今もなお色あせない貴重なものです。多くの先輩方、同僚に支えられた夢の様な時間について、みなさんにお伝えできれば幸いです。

JISSで働く前は何をしていたか

私は大学院を卒業したのち、初めて働く職場としてJISSに着任しました。という訳で、JISSで働く以前の話は、学生時代にさかのぼります―
もともとスポーツが大好きだったこともあり、将来はスポーツトレーナーになりたいと考えていました。しかし当時はまだ、トレーナーという職業にどうやったら就けるのかもわかりませんでした。そこで、考え出した答えが「学校で健康を守るトレーナーになろう」でした。学校のトレーナーは、、、保健室の先生(養護教諭)と思い(込み?)、その様な道に進みました。

その後、大学院への進学に際して、より深くスポーツ科学を勉強したいと考え、人生の恩師である東京大学の八田秀雄先生の研究室のドアをノックしました。大学院では白衣を着て、動物を使った実験研究を行っていました。これが「生化学」という研究分野への第一歩のように思います。しかし一方で、やはりスポーツそのものにも興味がありましたので、実験後の夕方からは、同じキャンパス内で練習を行っていたアメリカンフットボール部Warriorsに参加させて頂きました。

当時、私が所属していた大学院の専攻では、大別して「ヒトを対象とした研究を行うグループ」と「動物や細胞を対象とした研究グル―プ」があり、大学院生の部屋も2か所に分かれていました。前者は測定実験時には動きやすいように主に「ジャージ」などを着ていて、後者は「白衣姿」でした。当時、私は好奇心からどちらの部屋にも顔を出していて、その時としては珍しく、「ジャージの上に白衣」を着ていました。また、トレーニングジムに出入りしていたこともあって、ヒトを対象とした実験グループの被験者も数多く引き受けました。このような経験が、その後、JISS館内でも「ジャージの上に白衣スタイル」の確立につながったと思います。また、白衣で行う自分の「ミクロな研究」が、ヒトに対してどの様に貢献できるのかという自問自答は、トップアスリートが集うJISSでの仕事においても、自分のアイデンティティを構築する基盤になっています。

博士課程への進学時には、生化学の研究をより深めることを選択しました。ミクロな研究を通じて、マクロへ貢献しようと決めた瞬間でした。その後、在学中に1年間の在外研究をカナダで行う機会を得ました。研究テーマである「エネルギーの代謝効率」について、骨格筋細胞などの表面に存在しているタンパク質の分析に取り組みました。ヒトがエネルギーを効率良く使い、疲れず、高いパフォーマンスを発揮する為には、何が重要なのかについて、特に乳酸を中心として研究を進めました。

ちょうど留学から帰国する頃、JISSの生化学部門で研究員の募集があることを知りました。恩師からの「たぶん採用されないと思うけど、受けてみたらどうかな」という一言に背中を押され、チャレンジした結果、幸運にもJISSで働く機会を頂きました。余談ですが、面接試験の日は、カナダから帰国してまだ1週間ほどでした。緊張する私を見て、当時のセンター長・浅見俊雄先生が「じゃあ、面接を始めますね。英語でしましょうか?」と冗談を言って和やかにして下さいました。また、JISSで働き始めた数ヵ月後には、「君は僕がセンター長として採用した最後の研究員だからね。まぁ、頑張ってよ。」と、いつものにこやかな笑顔で、伝えて下さいました。

 
JISSで働く直前の研究留学期間中は、朝から晩まで実験漬けの充実した毎日を送っていました。いろいろな実験機材を使って、何不自由なく、自分が計画した実験を行っていました。体の中では、筋細胞の中では、こんなにも緻密にエネルギー代謝がコントロールされているという事実を、自分の実験で証明したいと思いました。このままここに居られたら、面白い実験が一生できると、研究者としての研究人生を考えました。
一方で、この研究分野の世界には、私以外にもたくさんの研究者がいて、誰かが研究を進めてくれるという現実も認識し始めました。誰かとは、恩師たちや信頼する友人・仲間たちであり、または他の多くのライバルなのかも知れません。今後十数年、ミクロな研究を進めることについて、真剣に考えるだけの時間が、雄大なカナダにはありました。
その結果、大学院5年間の研究生活で学んだことを、一度、試してみたいと思い始めました。まだまだ力不足ですが、それも早く知っておこうと思いました。そんな心境もあって、自分の研究が貢献できそうなフィールドを、次の活動拠点にしたいと考えました。私が研究を始めたきっかけの1つは、スポーツ選手に貢献したいという思いです。トップレベルの選手が集うJISSは、そんな私の思いが十二分に叶う、夢のような場所です。わずかですが研究生活で得た知識や考えが、スポーツ選手の役にたつのだろうか。またどうすれば、より役にたつ研究ができるのか。それを知りたかったというのが、JISSで働きたいと思った根源だったように振り返ります。

なぜJISSで働こうと思ったのか

JISSで働く機会を得られたことは、本当に素晴らしい幸運としか言いようがありません。たまたまその時期に、生化学分野の採用があったことが、非常に大きな幸運でした。

その後、JISSでは「アスリートに貢献する」という志で仕事を行いました。もちろん、当時の私は「生化学で金メダルに貢献するぞ!」くらいに意気込んでいました。しかし、それが「井の中の蛙」だという現実を知るのに、多くの時間はかかりませんでした。トップ選手の前では、本当に私の研究は役立つのか?について、常に試される毎日でした。守られた小さな環境の中でしか、貢献できないという事実をすぐに受け入れました。それを知れたことが、その後、研究においても役立っていると実感しています。JISSで働きたいと思い、叶い、自問自答の毎日を過ごし、卒業してもまだ感謝が尽きない、私にとってJISSは恩師のような職場です。

JISSでの業務の内容は?

私が採用された2004年からの世代は、JISSにとって第2期に当たると考えています。開所を担った運営部、研究部のみなさんが第1世代とすれば、私は第2世代というべきでしょうか。本稿第7回を担当された菅生貴之さんは、JISSで2年ほど一緒に仕事をさせて頂いた「第1世代の先輩」です。私が所属したスポーツ科学研究部の生化学分野では、先輩に花井淑晃さん(現・名古屋工業大学准教授)がいらっしゃいました。また、生化学分野では、上司である副主任研究員の高橋英幸さん(現JISS科学研究部)が統括していました。第2世代の私は、花井さんと高橋さんが作り上げられた生化学実験室を引き続き運営し、JISS全体に対しても、サポート活動や研究活動において生化学がどの様に関わりをもてるのかを試行錯誤する期間だったように思います。もちろん科学研究部として、全体の業務にも携わりながら、専門性を汎用化することが、次の世代の役割だったように思います。

着任初日、高橋さんとの会話の中で、特に印象に残っていることは「生化学実験室を守って欲しい」という言葉でした。当時の私は、JISSに就職したのだから、スポーツ現場と密接に連携しながら、現場の問題点を汲み上げられるような研究をしたいと考えていました。その意識を察してか、高橋さんは、まず生化学実験室を定常的に運営する(=守る)ことで、JISS内部だけではなく、対外的にもPRできるのだと諭して下さいました。これは、JISSの外(=現場)へ出て仕事を見つけようと考えていた私にとって、まずは自分の足元から整えなさい、という大きな思考転換となりました。実際、初めの1カ月間は「1塩基多型(SNP)と運動パフォーマンス」という、私にとっては初めて接する遺伝子関連の研究分野について、ひたすら論文を読んでまとめるという作業をしていました。時は折しもアテネ五輪の真最中で、JISSからは研究員が現場へ出払い、部屋には私1人、机に向かう日々が続きました。内心は、こんなことでお給料を頂いていて良いのだろうか、、、と悩む日々でした。
ただ、この最初の1か月が、非常に重要だったように思います。もともとトレーナー志望で、スポーツ現場が大好きな私ですから、ともすれば生化学実験室を守らず、スポーツの現場(合宿、練習場や試合会場)に出向いては、「生化学は役にたてますよ」と売り込みをしていたかもしれません。それよりも、まず自分は何ができるのか、現場にとってどんな役にたてるのかについて、私人ではなく「JISSの生化学分野の研究員」として立場を明確化する方が、よほど重要だったと理解しています。

そんな経験もあってか、その後、先輩の久保潤二郎さん(現・平成国際大学講師)から、日本レスリング協会とのサポート事業、研究プロジェクトを任せて頂く機会を得ました。また在職4年間では、いくつかの競技団体と生理・生化学的なサポート事業や、研究活動を行うことができました。JISSを卒業する時には、もっとスポーツ現場に関わりたかったという少しの後悔があったのですが、今ではいろいろと任せてもらえた幸運の方が心に残っています。

一方で、JISSが主体となって行う研究活動でも、科学部研究員の先輩・前川剛輝さん(現・日本女子体育大学)を中心として、高地トレーニングの有効的な活用方法について検討を重ねました。競技力向上という課題において、生化学的な分析方法がどのように役にたてるかと試行錯誤し、実際に岐阜県飛騨高山市で高地トレーニング合宿実験を行った経験は、非常に貴重で印象に残っています。

これらトップ選手の競技力向上を主眼としたサポートおよび研究活動を通じて、私が運営している生化学実験室の利用価値や、ひいては生化学という学問分野の応用価値を客観的に考える機会を与えて頂いたように思います。これはJISSを卒業した今も、礎として私の心に深く根付いています。

 

JISSの仕事で心に残っているものは?
心に残っていないものはないです、というのが本当に率直な感想です。たった1日の間に、いろいろな感動や興奮が味わえる職場だったので、「この感動を数日に分けて欲しい」と思うことが多々ありました。日本代表合宿でサポートや測定を行ったり、JISSに送られてくる検体を分析したり、海外からのゲストに対応したり、高地トレーニングの第1回国際学術会議の為にスペインに行ったりと、4年間の毎日が刺激的で、また出勤から夜までがあっという間でした。

私は現在、大学で教員として勤めているのですが、先日ゼミで「JISSにいた4年間で、朝起きて、今日は仕事に行きたくないなぁと思った日は1日もないよ」という話をしたら、4年生がびっくりしていました。今もですが、本当に幸福な職場に恵まれているのだと思います。

JISSでは、多くの有名なアスリート達と一緒に仕事ができ、また自分の専門分野を通じて、彼らに貢献しようと自己研鑽する喜びがあります。またJISSでは、多くの同世代のスポーツ研究者と一緒に、分野を越えたコラボレーションを通じて思考錯誤し、切磋琢磨する喜びもあります。

心に残ったことを具体的に挙げるとすると…仕事ではありませんが、生化学実験室を使ってもらうために、JISS館内のいろんな部屋に出向いた初期の日々が印象的です。生理学分野の研究員が常駐する科学研究部はもちろんのこと、心理学、バイオメカニクス、栄養、医学部、臨床検査室、トレーニングジムetc…加えて、我々の日々の仕事を円滑にする為に働いてくれる事務アシスタントや、JISSの運営を支えてくれる運営調整課など、いたる所に顔を出しては、「生化学実験室、やってます」とばかりに、宣伝して回ったように思います。これは、まずは私を知ってもらおう、生化学を使ってもらおう、という極めて重要な仕事でした。それは業務時間内だけではなく、業務後の討議会@赤羽(別名・飲み会)も非常に貴重な機会でした(本当にほとんど毎日でした)。本稿第5回担当の運営部・佐野総一郎君とは、研究員と職員という間柄ですが、同歳ということもあって、とても親しくさせて頂きました。@赤羽どころか、私の家でのホームパーティに一番よく来てくれた親友です。お互いに異分野であっても積極的に交流した結果、JISSを離れた今でも、多くの先輩方や後輩たちと仲良くさせて頂いている事実が、JISSに勤めた大きな財産の1つです。

そうして、JISS着任から2年がたったころ、生化学分野の研究員を増員採用して頂けることになりました。ある日、休憩中にベランダで1人、空を見ながらコーヒーを飲んでいると、隣に平野裕一先生(現主任研究員)がやって来ました。平野先生は真っすぐ雲を見ながら「生化学で1名、採用したからね。任せるよ。よろしく頼むね。」とおっしゃり、にこっと笑って出て行かれました。翌年、現研究員である大岩奈青さんが着任されました。在職3年目からは大岩さんと2人で、JISSにおける生化学分野の可能性について、仕事をより深め、広げられたと感じています。もちろん、JISSを卒業した今も、大岩さんの活躍を大阪から見守っています。

JISSの仕事を通して得たもの、自分が成長したと考える面
大学院を卒業して、研究者として始めて着任した職場がJISSだったので、私の社会人としての基盤は全てJISSでの経験からと言って良いと思います。現在は大学に勤めていますが、JISSのような大規模な研究所で勤めた経験は、非常に有意義だと思うことが多々あります。

これまでお伝えしたように、自分自身の専門性を客観視して、それが他分野やアスリートに対して貢献できるものなのかを考える事は、非常に重要であると思います。自分を客観視することは、対象との関連性や距離を探るだけではなく、結局は自己研鑽につながるという教訓を得ました。

また、組織の中で、組織として動く、働くという意味や意義を、実践形式のなかで学んだように思います。己や己の分野ではなく、JISSやJISSの生化学分野としての軸を据えるという心構えでしょうか。よく目耳に触れる「人が1人でなし得る事は、それほど多くはない」という事実を、JISSでの職務経験を通じて理解しました。

これには、科学部の上司や運営部の方々、研究員の諸先輩方の存在が大きいと感じています。27歳でJISSに着任した私は、研究者としてだけではなく社会人としても未熟で、名実ともにヒヨコでした。無知であるがゆえに、時に無礼で尊大な立ち居振る舞いをしていたと反省しています。そんな若造を、JISSの諸先輩方は時になだめ、傾聴して下さり、まるで末っ子の弟の様に大切に扱って下さいました。

本稿でも何度か記述していますが「任せる」という尊い言葉があります。恩師の八田先生もそうですが、平野先生や高橋さん、科学研究部の同部屋にいらっしゃった諸先輩方、みなさんが私や生化学分野に任せてくれました。任せられると、自由にやって良いと意気上がり、勘違いしてしまいますが、社会人として働くにつれ「任せる=責任の委譲」という真実を知ります。任せてもらった責任、預けられた期待、それを感じてこそ、取り組むパワーやエネルギーが増します。

大学教員となった今、学生に任せることが難しく、常に葛藤があります。しかし、多くを任せて頂いたJISSでの日々を思うと、任せられない自分にはその勇気がないとわかります。失敗しても責任はとるからやってみなさいと、JISSの先輩方の様に任せられる人間へと成長したいと思います。

JISSで働くことを希望する人にメッセージ
北京五輪まで在職した私が第2世代だとすれば、ロンドン五輪以降の現在、JISSで活躍されている方々は第4世代、もしくは第5世代でしょうか。JISSも組織が大きく変わり、隣接するNTCも稼働し、関わる人間の数も数倍になったと聞きます。昔ながらの私の言葉が、今のJISSに沿うものが心配ですが、、、浅見初代センター長がおっしゃった「最強の黒衣たれ」という言葉が印象に残っています。JISSは多くの運営スタッフと研究者から成り立つチームです。チームとなり歌舞伎の黒衣のように、後方からアスリートやスポーツに関わる人々をサポートします。チームには様々な役割がありますが、その役割に大小や優劣はありません。ただ、全てのメンバーが同じ方向を向いていなければ、チームは上手くいきません。我々、研究員は様々な意思や情熱をもって、JISSでの仕事を希望します。その多様な志を認めたうえで、それらの向かう先が同じ方向だと素晴らしいと思います。高い専門性をもって、それを国際競技力の貢献に向けて活用できるような人材が、これからのJISSを担ってくれると期待しています。 
JISSを卒業して

昨年末、近畿在住のJISS OG&OBが集まり、大阪に来られていた平野先生を囲んで、JISSの近況についてお聞きしました。現在のJISSでは、私と同じ時間を過ごした先輩方や同期たちが、常任研究員として活躍しています。彼らの活躍を祈り、また我々、卒業生も何か役にたてないかと考えています。

今年で開所12年目を迎えるJISS。スポーツ界、日本の社会へのさらなる貢献を期待し、信じて応援します。JISSの卒業生は様々な場所、分野へ広がっていますが、

 

それぞれの点が広がったら、それらを結んだ面積は大きくなる 佐藤竹善(Sing Like Talking・歌手)

 

この言葉を信じて、微力ですが私もJISSに協力できたらと思います。

 

 

投稿者: host 投稿日: 2013/01/09 17:12

スポーツ振興事業部 事業企画課 契約職員
2004年10月から2007年3月 JISSスポーツ情報研究部 契約研究員


現在の所属、業務内容 
第3期toto事業に向けて、2010年からtoto販売システムを刷新するプロジェクトに参加しています。2013年シーズンからtoto事業は13年目に入り、第3期として新スタートを切ります。それにあたり、販売力増強とサービス向上、
運用経費
の削減をめざして、システムを刷新しているところです。
スポーツ振興の安定財源を確保することは、スポーツ界にはもちろんですが、日本の財政事情にも寄与することになります。日本の平成24年度のスポーツ関連予算は238億円(文部科学省『平成24年度予算』より)ですが、諸外国のスポーツ関連予算は以下のようになっています。(文部科学省『諸外国および日本におけるスポーツ振興施策等に関する調査研究』より)
英 1054億円 (2008年)、独 245億円(2008年)、仏 930億円(2010年)、カナダ 127億円(2008年)、韓国 2200億円(2008年)、中国 2460億円(2008年)、オーストラリア 254億円(2010年)、米 115億円(2009年ただし米には公的な振興予算はない)。
また、オーストラリア、カナダ、ドイツ、韓国、中国にはスポーツくじがあり、その収益からスポーツ振興助成がなされています。
ちなみに平成24年度の文部科学省予算のうち、たとえば文化芸術関係予算は1074億円、科学技術予算は1兆791億円です。スポーツ予算は文化芸術や科学技術の国の予算に比べれば少ないのですが、平成24年度はマルチサポートを含むナショナル競技力向上プロジェクトという新規プロジェクトに32億円の予算が付くなど、国民のスポーツに対する支持を示しているものだと思います。国民の税負担を減らしつつ、計画的にスポーツ振興を行うために、これからもtotoの収益が重要になってくるでしょう。
その中で私の業務は、toto販売端末の開発を担当しています。その端末は2013年シーズンから全国の特約店と信金で運用されるtoto専用の販売・照合用端末で、2012年シーズンまで使われていた端末から格段と機能と性能が向上しています。これを含めた新システムによって、お客様にとってはよりtotoが買いやすくなり、
日本スポーツ振興センター(以下、「JSC」という。)
JSCの運用経費削減にもなります。
JISSでの所属、業務内容 
JISSではスポーツ情報部研究部で契約職員として、主に選手身体測定データシステムの開発のプロジェクト管理を行いました。私を含めた契約職員3人で、システム設計、データモデル作成、先行的な実装やユーザーテストを行いました。
それ以前に使っていた古いシステムは、レスポンスが実用に耐えられないほど遅くなっていました。そのためリース期限がきれるのを機会に再構築することになりました。そのときに情報研究部で相談し、設計と一部の実装を内製化し、サーバー・ハードウェアを新規購入して、構築したアプリケーションはソースコードを含め買い取り契約にすることにしました。その結果、契約職員の人件費やテスト用ハードウェア費を含めても、4分の1以下の経費で完成しました。
私がJISSに入りたかったきっかけは、スポーツは社会を変え、イノベーションを起こすことができると思ったからです。私が1998年の長野冬季オリンピックで、オリンピックの競技結果システムの開発と運用を行っていた時のことです。ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の選手が参加することになったのですが、インターネット制作チームを初めシステム担当者は、システムへ入れる国旗の画像が手に入らず大変でした。外務省に問い合わせてもわからないとのこと。
ボスニアは旧ユーゴスラビアが分裂したあと、1991年から1994年まで内戦状態にあった国です。当時は日本でも自衛隊のPKOへの派遣の道を探っていたのですが、内戦状態での協力は間に合いませんでした。1995年には和平は成立したものの、1998年初めにはまだ国際的に通用する国旗が決まっていませんでした。長野オリンピックへの招待状を受け取ったボスニアは開会式の3日前に国旗を制定し、2月7日の開会式で世界がその国旗を始めて目にしました。1995年にはボスニアは、欧米十数カ国からなるNATO軍から空爆を受けていました。もし欧米でオリンピックが開催されていたら、ボスニアの選手はオリンピックに参加しただろうか。日本はPKOに自衛隊を派遣できませんでしたが、ボスニアの融合に貢献できたのではないかと思いました。スポーツイベントには世界を平和にする力があります。

記憶に残る大変だったこと
それまでは、公的機関の発注者側としてシステムを発注したことがなく、入札仕様書などの書き方から学ぶ必要がありましたし、JSC(当時NAASH)の購入の仕方から異文化でしたが、開発の課程でスポーツ科学研究部の皆さんや運営部の皆さんの協力をいただきました。当時のJISSの運営部にはご苦労をかけましたが、機敏な対応で臨んで頂き感謝しています。
当時はJISS設立当初に納入されたシステムベンダーのハードウェアとアプリケーションが入っていました。改訂するにあたってはシステムベンダーに一括開発委託すれば安心です。しかしあえて、ハードウェアも別調達にして、設計と開発の一部を自家製で行いました。そうすると完成責任はJISSにあります。開発段階途中で発生する偶発的なリスクには、JISSのコストで対応しなければなりません。このコンティンジェンシー・プランというものを理解してもらうのが、難しいようでした。使わない可能性のあるものは、買えないわけです。リスクが顕在化してからでは遅いから、用意しておくわけなのですが。調達と同じで最初に決めた金額さえ出せば、月日が満ちると確実にできてくるものだと思われていたのかもしれません。

自分のためになったこと
JISSに勤務している間は、スポーツ関係、医学関係、情報関係という多様性にめぐまれた環境で働けたのは、自分にとって大きな意味を持ちました。IT関係以外の分野の研究を身近に見ることができ、視野が広がりました。日本の競技力向上というひとつのテーマに関して、これだけ切り口の多い方法があるということに気づきました。
経済学者のシュンペーターは、イノベーションを「新結合」と呼んでいます。今までになかった新たな組合せを実現することがイノベーションです。それには多様性を認めあい、失敗に寛容でなければなりません。ビジネスや行政と同様、スポーツ事業やスポーツ研究は発見的作業なので、毎日同じ作業を続けていくのが仕事というものではありません。また、すべてを知っている人がいるわけでもマニュアルが存在するわけでもありません。プロジェクトはすべて一回限りの一発勝負です。それを完成させるには、絶対できるはずという、良く言えば信念ですが悪く言えば根拠なき自信が必要です。発見的なプロジェクトでは、できると思ってやらないと偶然に遭遇した小さな兆候に気づかず、目標を可能にするせっかくのチャンスを見過ごしてしまいます。
1964年の東京オリンピックをきっかけに日本は新幹線と高速道路を作り、その後の高度成長の礎になったことは誰もが知っています。しかし、それだけではありません。その時SEIKOが世界で初めてクオーツ時計を使っていくつか競技の公式計時を行いました。当時、スイス時計工業の精密技術は圧倒的でした。SEIKOがクオーツ時計の精度を世界中に知らしめたこの大会がなければ、その後日本製の時計が世界市場を席巻するのにもっと時間がかかっていたでしょう。それまでは時計は一生に何個買えるかくらいの貴重品でしたが、以後ありふれた日用品になっていきました。また、日本IBMが世界で初めて、オリンピックの競技結果配信をオンライン化しました。この後日本で銀行のオンライン・システムが普及していきました。NHKはマラソンコース全体にテレビカメラを配置し、世界で始めてマラソンを途切れなく中継しました。長野オリンピックでは、競技映像のVOD(Video On Demand)が提供されました。今は当たり前になったサーバー型放送、すなわち動画のネット配信です。また、インターネット・オリンピックと銘打って競技結果やニュースサイトを立ち上げ、インターネットの普及に一役買いました。このようにしてオリンピックをきっかけにして、潜在的なイノベーションが開花し、次の時代を作っていきました。スポーツイベントはイノベーションを世に出す力があります。

JISSの仕事のやりがいは?

一流の選手達に一流のサポートを行う、あるいは、その元となる研究や開発を行うことは、JISSでの大きなやりがいです。一流を目指すというのは、自分独自の理論や手法を発見しなければなりません。他がこうやっているとか、誰かがやってうまく行っているということをまねしても、2位にはなれても1位にはなれません。それを自分で考えて実践まで通して行えることは、JISSでこそのやりがいではないかと思います。企業や官公庁とは違い研究施設であり事業施設でもあるJISSでは、研究、開発、運用のすべてが体験できます。またそこに様々なバックグラウンドや専門分野を持った人たちがいて多様な影響を受けられることは、若い研究者や技術者にとっては得がたい経験となると思います。
これまでまったくスポーツとは関係がないと思っていた分野であっても、まだ我々が気づいていないだけで、スポーツに貢献できる分野はたくさんあります。かくいう私もコンピュータ会社のプログラマとして社会人をスタートしました。その途中でアトランタと長野オリンピックの競技結果システムの開発に加わったことをきっかけにして、スポーツITの世界に足を踏み入れました。まさかスポーツとITが結びつくなんて思われていなかった時代です。その後、ソルトレークでスポーツ結果情報とXMLを結びつける仕事をすることができ、インターネットや放送でスポーツ系の情報システムの構築をしました。
心理学や栄養学はもちろんのこと、映像技術や情報技術もスポーツになくてはならない分野になったように、多くの異分野の知識が結合してスポーツ科学が進展していくでしょう。たとえば、ブラッド・ピットが主演した「マネー・ボール」で紹介されたセイバー・メトリックスは有名になりました。これからは流体力学や機械工学やもスポーツ用具の開発には必要でしょう。経営学の分野なら、イノベーションの管理法やスポーツマネジメントもスポーツには有用です。すぐにスポーツに関連しない分野であっても、自分の専門分野を持ちそれに深く打ち込んで専門性を極めれば、自分の力でその専門分野をスポーツに結びつけることができると思います。
スポーツ選手へのサポートを通じてまた自分の専門性を使ってスポーツの未来を変え、スポーツの力を使って世界を変えることができると信じて研究できるのが、JISSの仕事のやりがいだと思います。

投稿者: host 投稿日: 2012/07/25 0:00

日本スポーツ振興センター スポーツ振興事業部事業企画課 主任
2006年4月~2011年7月 JISS 運営部 会計課
トトオフィシャルサイトへ
現在の所属、業務内容

私は、2006年4月に日本スポーツ振興センター(センター)一般事務職員として採用され、JISSに5年4カ月勤務し、その後昨年2011年8月からスポーツ振興事業部事業企画課に所属しています。

スポーツ振興事業部という部署では、スポーツ振興くじ(toto)の運営・販売元としてサッカーくじの販売事業を展開し、その収益を財源として様々なスポーツ振興事業に対する助成を行っています。
その中でも私は、toto・BIGを中心としたサッカーくじ全般の販売促進に係る広告宣伝を中心とした業務を担当しています。

TVCF撮影の様子

TVCF撮影の様子(手前左)

我が国のスポーツの競技水準の向上や地域におけるスポーツ環境の整備を図るためには、安定的にくじの売上を確保すること、つまり、より多くのお客様にサッカーくじという商品を購入いただくことが必要となります。独立行政法人という組織において、特定の商品の販売促進や、マーケティングに携わる機会は少ないかと思いますが、サッカーくじの売上向上を主な目的とした業務がスポーツの普及・振興につながっていくという意識の下、日々の業務に取り組んでいます。サッカーくじの楽しさ・魅力をより効果的に、より多くの皆様にお伝えし、より多くの購買行動に導いていくことにより、スポーツの普及・振興を下支えする原資が安定的に確保されることを目指しています。

なぜ日本スポーツ振興センターで働こうと思ったか

大学時代は農学部で農業経済学を専攻し、社会科学的な視点から農業政策や農村社会の歴史・機能といったテーマについて多角的に幅広く学びました。そんな私が、まさに「畑違い」と言える、スポーツや学校安全を中心とした業務を行うセンターでの就職を希望したきっかけは、国立霞ヶ丘競技場でのサッカー観戦でした。

小・中・高校とサッカーに取り組んだこともあり、また、国立霞ヶ丘競技場という場所への単純な憧れもあり、大学時代はサッカー日本代表の試合等に幾度となく足を運びました。競技場の来場客という立場では、競技場の運営に関わる仕事に何となく興味を持っていた程度でしたが、就職活動時に偶然採用案内の書類を目にし、センターの業務全般に強く関心を持つようになりました。最初に興味を持った国立霞ヶ丘競技場を始めとしたスポーツ施設の運営、JISSにおける研究事業やアスリートの支援、スポーツ振興くじ(toto)の事業や学校安全に関わる業務などセンターの業務は多岐にわたっており、しかも、先に述べた大学時代での研究内容とは全く異なる分野です。そのことを理解しながらも、スポーツに関係する仕事をしたいと強く希望するようになりました。

JISSでの業務内容とJISSの仕事で心に残っているもの

JISS勤務時は、運営部会計課に所属していました。運営部会計課という部署では、JISS及びNTCの予算管理や収入・支出に関する業務の他、契約に関すること等の業務を行っています。中でも私がJISS勤務時に担当していたのは、主に収入に関する業務と公的研究費の管理・支出に関する業務でした。JISSの業務、と聞いて多くの方が連想するのは、トップアスリートを始めとした施設利用者に対する様々なサービスの窓口としての業務や、スポーツの国際競技力向上のための研究・支援の現場、といった業務かと思いますが、組織・施設を整備し管理・運営していくためには、それらを下支えする多くの業務があり、とりわけ会計課はJISSやNTCの「お金」にまつわる業務を通して組織・施設を下支えする、といった立場だと思います。
JISSは我が国のスポーツ分野での最先端の機関であると同時に、日本スポーツ振興センター という独立行政法人の一部署として、常にその動向に多くの国民の関心が向けられています。予算の執行や契約の締結には高い透明性が求められ、手続きや処理 方法に対しては厳しい監視の目が向けられています。既存の関係規程等のルールを遵守しながら、JISSという日本スポーツ界最先端の機関を管理・運営する ことに時に困難も生じますが、日本のスポーツのさらなる発展のため、国際競技力向上のためと心得、日々の業務に取り組みました。

個人的に心に残った業務は、本年開催されるロンドンオリンピックにてその役割が期待されるマルチサポート・ハウス、そのトライアルとして2010年広州アジア大会にて設置されたマルチサポート・ハウスに運営スタッフの1人として業務に関わったことです。通常業務ではアスリートと直接的に接することは殆ど無く、事務処理でのみ関わっていた競技の現場、国際大会の場面で、競技本番に臨む選手達の雰囲気を肌に感じることができたことは、今後もスポーツに関わる仕事を続けていく上で貴重な経験になったと思います。

マルチサポートハウスにて
マルチサポート・ハウスにて
JISSで働くことを希望する人に対するメッセージ

先に述べた通りJISSには、トップアスリートが活躍する場面や国際競技力向上のための研究・支援の最前線といった表舞台の他、それらを後押しし下支えする管理部門の運営スタッフという立場の業務も存在します。いずれも共通するのは、日本スポーツの国際競技力向上を目指すこと、スポーツの普及・振興を通して国民の健全な心身の形成に寄与することを目標として業務に取り組むことであると考えます。より多くの方々に、今後もJISSの取り組みや、日本スポーツの国際競技大会等における活躍に興味を持っていただけると幸いです。

日本スポーツ振興センターで出来ること(今後の展望)

昨年2011年3月に東日本大震災が発生し、東北地域を中心とした東日本一帯に甚大な被害が及び、今なお原発事故による避難等で震災前の日常を取り戻すことができない方が数多くいらっしゃいます。政府や自治体による被災地域の復興・支援が行き届いていると言えない状況の中、震災後、この日本社会において「スポーツ」に求められる役割は何なのか、また、日本スポーツ振興センターとして何に取り組んでいくべきか、今後も継続的に考えて行く必要があります。昨年2011年6月から7月にかけて開催されたサッカー女子ワールドカップでは日本代表チームが見事に初優勝を飾り、日本国民を大いに勇気づけたことは記憶に新しい出来事です。「スポーツの力」は形あるものではありませんが、国際舞台における日本人選手達の活躍は、それを目にする日本人の一人一人の心に少なからず感動・勇気を与えるものであると私は信じています。センターとして、スポーツ基本法・スポーツ基本計画において求められている役割を今後十分に果たしていくと同時に、「スポーツの力」をより幅広く社会に還元し更なるスポーツの普及・振興に役立てていくことが今後目指すべき方向であると考えます。まずは、本年開催されるロンドンオリンピックにてマルチサポート・ハウスが十分に機能し活用され、日本選手団が立派な成績を収めてくれることを大いに期待したいと思います。


ページの一番上へ▲

投稿者: host 投稿日: 2012/07/05 0:00

現職 大阪体育大学 体育学部 スポーツ教育学科 准教授
専門領域 スポーツ心理・カウンセリング
最終学歴 日本大学大学院文学研究科教育学専攻博士後期課程満期退学

元スポーツ科学研究部契約研究員

現在の業務内容
a.教育活動

私は現在、大阪体育大学体育学部スポーツ教育学科というところで、准教授として勤めています。本学では「スポーツ心理・カウンセリングコース」という、日本の体育系大学では初の「スポーツ心理学」を専門とするコースを開設しています。JISSでの経験を活かし、その開設のためのスタッフとして雇われたということになります。
大阪体育大学スポーツ心理・カウンセリングコースでは、「カウンセリングマインド」を持った体育教師を現場に送り出すことを主たる使命としています。多くの教職を目指す学生に対して、体育の授業だけでなく生徒の「心」をケアできる体育教師がこれから必要とされてくる、という時代のニーズをとらえて開設されました。そうした中で、部活動などに真剣に取り組む高校・中学の生徒さん達に、私がJISSで行っていた「スポーツメンタルトレーニング」の技法指導ができるような教師を輩出できたらとても価値あることではないかと感じています。

私のゼミには毎年10名前後の学生がやってきますが、彼らの多くがスポーツ競技者に対する「スポーツメンタルトレーニング」の指導について学びたいと言ってきます。2010年度からは大学院での指導も始まりました。そのような教育活動の中で、私が無我夢中で行ってきたJISSでの仕事が、これほど学生たちの学びにつながるものなのかと驚かされます。

JISSで我が国エリート選手達にかかわりながら培ってきた心理サポートの経験は、何物にも代えがたい宝物です。今、実際に心理サポートを学びだしている大学院生や学生が、実際に選手に技法指導を実践する上で疑問として持ってくる様々な悩み事や不安なども、多くは私がISSですでに経験していることでした。私の宝箱から少しいくつかの経験を持ち出しては彼らの疑問に答えていくことも多いですが、一方で自分で考えて感じて乗り越えてほしいことは、黙って見ています。私がISSで色々と悩んで、迷って乗り越えていったように、学生たちがその壁を乗り越えてくれるのを祈りながら見つめている、という感じでしょうか。

「スポーツメンタルトレーニング指導論」という学部2年次の授業では、男子学生ばかり100名くらいを対象に授業をしていますが、自分の競技活動と関連が深いせいか、学生たちはとても集中して授業を聞いてくれています。 その中ではISSでの体験の多くを、(秘匿性に配慮しながら)語らせていただいています。同じスポーツメンタルトレーニングの理論でも、ISSでトップアスリートと取り組んだ、という体験談が付録としてついているだけで、学生たちにとっては、より一層興味深いものになるようです。

授業風景

b.トレーニング科学センターでのサポートシステム構築

そして、昨年度からは大阪体育大学の「トレーニング科学センター」という附置センターにおいて、「スポーツ医・科学サポート」のシステムを作り上げ、大学院生を中心に「スポーツメンタルトレーニングチーム」を結成しました。彼らは積極的に学内外のスポーツチームの心理的サポートを行い、また2011年5月には「学生スポーツメンタルトレーニング研究会」という他大学と共同で行う研究会も成功させています。

「スポーツメンタルトレーニングチーム」では、部活動などのチームに対して心理サポートを実施するために、学生たちは主体的に心理サポートのプログラムの作成のための勉強会を実施しています。実践にあたっては定期的に私を含めた数名のスポーツメンタルトレーニング指導士資格取得者の教員たちにスーパーバイズを受けながら、より良い心理サポートを提供できるように工夫をしています。サポートを実践した後は「サポート記録」をまとめ、定期的に行っている「事例検討会」に事例を提供して、自分たちのサポートが正しく行われているかをみんなで検討する機会を持っています。こうした心理サポートの実践の方法論は、ほとんど私がISSで行ってきたものと同等のものです。

約50名が参加して行われた、「学生スポーツメンタルトレーニング研究会」の様子

これらの組織化においては、それこそ私がISSで、多くの若手研究員たちと一緒にディスカッションしながら作り上げていった、ISSの「トータルサポート」の理念がいかんなく活かされています。サポートを要望する運動部などの組織と強化担当者に聞き取りを行い、必要なサポートを要望してもらって、こちらからはサポートのスタッフを派遣する、という形です。ISSで行っていたように、心理スタッフだけでなく他のスポーツ医・科学スタッフと有機的に共同作業を行う、というところまではまだ到達していませんが、いつの日かISSにも劣らないサポートシステムを作り上げていこうと、日々学生たちと奮闘しています。
JISSでの業務内容

JISSでは、スポーツ科学研究部の心理グループ契約研究員という立場で業務を行っていました。勤めた当初は心理担当の研究員は私が一人で、非常勤専門職員として3名の方と一緒に仕事をさせていただきました。その頃は個別に心理サポートをすることや、プロジェクトとしてチームをサポートすることも重要な任務でしたが、何よりも心理サポートの組織を作っていくことが最優先であったように思います。何しろどの仕事を、どのような形で遂行していくか、といったことがほとんど決まっていなかった状態でした。それこそ初めの夏は、夏休み中の近隣大学の大学院生さんたちに毎日のように電話をして、どのように派遣前チェックを乗り切るか、ということに注力していました。まるでどこかのショップの店長さんがバイトのシフトに四苦八苦しているような生活でした。それでも一年もするとスタッフの増員が認められたり、心理データのフィードバックがシステム化されていくなどして、徐々に“組織”が出来上がっていきました。今振り返ってみて、まだ若かった当時の私には、システムづくりというのは少し荷の重い仕事であったと思うのですが、それでも学会等でお知り合いになっていた先達の先生方や、アドバイザーとして東京工業大学の石井源信先生などが親身に相談に乗って下さりサポートしてくださいました。


4年間の勤務の後半は、選手に対してメンタルトレーニングの講習会を行ったり、個別のサポートにだいぶ力を注げるようになりました。講習会では強化現場の指導者の皆様と競技力向上のための熱い議論を交わすことができました。個々に対応させていただいた選手の皆様からは私にとってかけがえのない経験と知識を与えていただきました。そして何よりもオリンピックでの活躍、という宝を私たちにもたらしてくれました。今振り返ってみても、夢の中にいたような、すばらしい日々であったと思います。
JISSではそうした実践活動とは別に、私が今でも継続して行っている「リラクセーショントレーニングの効果に関する研究」について基礎的な知見を得ることができました。プロジェクト研究では心理の研究者だけでなく、生理・生化学、バイオメカニクス、栄養、ストレングストレーニングと、様々な分野の専門家たちとともに研究を行いました。これらの貴重な経験は、現在の私の研究・教育の根幹として私を支えてくれています。
JISSの仕事で心に残っているもの(大変だったこと)
JISSに勤めていて大変だったこと、といいますと、実際のところはそんなにたくさん思い浮かびません。しいて言うならば、JISSのみならず、日本の競技関連・学術関連の多くの方々から大きな期待をかけていただいた、そのプレッシャーでしょうか。

たとえば私たちは「日本スポーツ心理学会」をはじめとする様々な学会とかかわって仕事をしていましたし、今でもそうです。こうしたところでは多くの先達の先生方から叱咤激励をいただきました。当時は特にシステムづくりが急務であり、どのように学会関連の先生方に協力いただいて仕事を進めていくか、ということに多くの研究者の方の関心が集まっていました。これは現在でもJISSスポーツ心理グループの課題として残っているように思います。今となっては逆にJISSを外部から眺めるようになり、何かお役にたてることはないものかと日々探索している感じがします。

個々の業務で大変だったことと言いますと、これは一番の思い出でもあるのですが、契約最終年に行った、オリンピック直前合宿でのサポートはとても印象的に残っています。オリンピックの現地にほど近い海外の合宿地を訪れて、選手たちの心理サポートを担当しました。私と栄養サポート担当の柳沢香絵さん(現相模女子大学)と競技団体の科学スタッフの伊藤穣さん(現ナショナルトレーニングセンター)でサポートを行いました。私は夜になって選手が少しゆったりしたころに宿のレストランの一角に「即席カウンセリングルーム」を作って、選手のお話を伺うという仕事をしていました。しかしこれは私が考えていた以上にしんどい作業で、終わった後に部屋でばったりと倒れるように朝まで眠ってしまったこともありました。でも、その時救いだったのは、JISSで長年にわたってそのチームにかかわらせていただき、選手やコーチともよく見知り合っていたことと、先述の一緒にサポートに伺った科学スタッフとそうしたサポートの苦労を分かち合えたことでした。サポート実施上の様々な問題や悩みは一緒にサポートをしていた彼らと共有して、お互いの活動を支えたり、助言し合ったりしていました。こうして、サポートの分野を超えて互いに協力し合い、時には支えあうような関係はJISSのサポート体制ならではのことでしたし、なかなか実現しようと思ってもできることではないと思います。
JISSの仕事で心に残っているもの(今の自分の活動に活かされていること)
自分のためになったことでは、業務内容のところでも触れましたが、どれか一つ、というよりもJISSの活動すべてが今の研究・教育という私の仕事の根幹となっています。いうならば、今の生業の糧になりました。それはサポート・研究という業務だけでなく、組織というものそのものへの理解やコンプライアンス、人間関係といった、社会的な知識もすべてJISSで得たといっても過言ではありません。JISSで働く、ということは国民の血税を使って、世の中の皆様に役立つことが最終的には求められると思います。日々の業務の中で常にそれを意識するわけではないのですが、それでもふとした時に「襟元を正さねば」という気持ちになったものです。

私は大学院後期課程の満期を迎えてすぐにタイミングが合ってJISSに入れていただきました。研究者の端くれとして走り出したその最初の職場で、同年代の、しかも様々な分野のスポーツ科学の研究者たちと知り合えたことは、本当に素晴らしい財産になっています。今でも当時共に働き、悩み、時には杯を交わした彼らとは、再会のたびに当時を懐かしく思い出したり、今のJISSはどうしているか、といったことを話し合ったりしています。時には私の大学に来ていただいて講演をしていただいたり、というつながりを持つこともあります。大阪体育大学に勤めて間もなくの時に大学主催のシンポジウムを開催した折には、浅見俊雄初代センター長にわざわざ来阪いただいて、特別講演をしていただきました。とても高名でなかなかお呼びできない方でしたので、主催者など周囲の皆様にも喜んでいただけたのですが、その時私がご依頼のお電話を差し上げたとき浅見先生は、「他ならぬ菅生さんのお願いならば」などと冗談でおっしゃって下さいました。私にとっては忘れられないご縁です。
JISS,日本スポーツ振興センターの仕事のやりがいは?
私が勤めていた当時は、(今もそうでしょうが)あまりにも多くの一流選手がJISSにいて、その中で本当にごく一部の選手にしかサポートができていないことをもどかしく思っていました。もっと多くの選手のサポートをする方法はないものかと自問していたものです。でも、今にして振り返れば、私が出会った個々の選手たちに行ってきた心理サポートという仕事は、こんなにやりがいのある仕事はないな、と思います。私がかかわった選手の皆さんはその後も様々に人生を生きていらっしゃいます。コーチなどの指導者として後進の指導に当たられたり、進学、結婚など、新たな道に進まれた方もいらっしゃいます。そうした方々の人生のごく一部ですが非常に重要で重厚な時期を共に過ごさせていただいたということは、本当に光栄なことです。彼らの人生に、私とかかわったことが少しでもプラスになっていたら、と願う次第ですが、私としては本当に誠心誠意、関わっていったつもりです。

私がJISSを退職して数年になりますが、中には現役選手として競技を続けている方もいらっしゃいます。ジュニアのころからかかわっていたチームがその後シニアの世界選手権で団体金メダルを取って、まだ私を興奮させてくれたりすることもあります。これからは私がかかわった選手の皆さんが指導者となり、その次の世代の選手に期待の目を注ぐことができるでしょう。JISSで勤めている間に願っていた大勢のサポートをするということよりも、数は少なくても個々の選手と深くかかわって、遠い空から喜びを共有できる、ということがJISSの最大のやりがいだと思います。JISSの研究員でなかったらここまで個人の選手に深くかかわることは難しかろうと思います。

私は競技力向上のためのスポーツ科学を志す人には、ぜひともJISSで働くことをお勧めします。教科書で学んだり、体験談を聞くということで得られる知識とはまた違った意味で心に響くこと間違いなしです。その責任の重さを差し引いても、JISSは本当に魅力ある職場であり、私の指導する学生・院生なども将来的には、JISS研究員の職務にチャレンジをしてほしいと考えています。

ページの一番上へ▲

投稿者: host 投稿日: 2011/08/24 0:00

現職 (財)日本テニス協会強化本部ナショナルチーム情報戦略担当スタッフ
専門領域 スポーツ情報、ゲーム分析
最終学歴 筑波大学大学院修士課程体育研究科修了

元スポーツ情報研究部契約職員(情報処理技術者)

現在の業務内容

現在、私は財団法人日本テニス協会強化本部との間で契約を取り交わした形で情報戦略担当スタッフとして活動しています。これは通常の事務局職員などとは異なり、強化に関連することに特化した事のみを担当する役割です。
強化のみを取り扱う役職になりますので、実際には年俸を提示されてテニス協会との間に契約を取り交わす個人事業主として活動していることになり、通常は味の素ナショナルトレーニングセンターの屋内テニスコートに併設されているテクニカルルームに常駐して勤務しています。これ以外にも大会時のサポートを行うための出張等を含めて年間200日程度の拘束日数をもってテニス協会の職務を行う事になっており、現状でこれ以外の仕事は行っていません。

強化本部の情報戦略スタッフとしての活動ですが、主に行う業務を挙げてみると
○ 味の素ナショナルトレーニングセンターの映像関連機器や情報関連機器の管理・運営
○ 上記NTC設置機材やテニス協会で保持する機材などを使ったナショナルチーム所属選手、コーチ等に対する情報関連サポート

> トレーニングや試合映像の撮影およびフィードバック
> 強化関連の各種情報に関する分析作業とレポート作成によるフィードバック作業(映像含む)
> コーチや選手、強化本部役員が各種発表等を行う際のプレゼンテーション等の作成サポート

○ テニス協会で認定する各種指導者資格の養成講習会における講師役
○ 強化本部およびナショナルチームからテニス協会内外に向けた情報提供を目的とする情報関連資料の作成作業(機関紙様の物や、Webを通した物等)
○ 情報関連分野における文科省やJISS、JOC、マルチサポート事業等の公的機関との連絡調整役
○ 上記公的機関へ提出する各種資料の叩き台作成と成文化
○ ナショナルチームにおける事業(=強化に関わる計画)の叩き台作成と、強化関連スタッフとの連絡調整等を行った上での成文化

といった感じになると思います。物量的に意外に多くの時間を割いているのが「叩き台作成」と「成文化」と書いた作業です。私の中で勝手に「作文作業」と考えていますが、この作文作業をデスクワークとし、実際の大会やトレーニングの現場に帯同し、選手やコーチに直に接しながら映像撮影等のサポートを行う事を事後まで含めてフィールドワークとすれば両者の比はデスク対フィールドで2対1ぐらいになるかな?と思っています。
強化に特化している事を業務としているので明確にデスクワークとフィールドワークの境目を区別するのはもちろん難しい側面がありますが、「強化のためのナショナルチームスタッフ」という一般的なイメージとはかけ離れた活動をしている部分も多く、それが情報戦略スタッフの役割と私の中では定義づけているので、自分の業務を他人に説明するのはかなり難解な状況です。
よくあるパターンが初対面の人などに私の役職が書かれたテニス協会の名刺をお渡しすると「へー、で、いったいぜんたい何が仕事なのですか?」と聞かれるパターンです。その際も、その場で言葉だけで説明するのは非常に難しく、名刺をお渡しした方に自分の役割が伝わりきったという感覚を持った事は無いので、殆どの方には「なんだかよく分からない謎のスタッフ」として映っているのではないかと思います。
そうなってしまうのは、強化に特化していると言っても挙げ連ねたように、自分の担当する業務範疇が非常に多岐にわたっていて便利屋的な側面もある事に原因があり、あまり良くない事だとは思いますが、現状では「情報戦略スタッフ」という役割の確立化を行う上ではこういった方法が必要なのだと思います。
「情報戦略」という言葉と、そこに携わるスタッフの人材が必要というのはJISSという環境では当たり前になっている事だと思いますが、NFレベルではまだまだ浸透度が浅く、自分がテニスの強化現場において「情報戦略スタッフ」という役職を確立していくという重責を担っていると思います。
実際にテニス協会における私の上司という立場になり、かつ雇用の決定権を握っていると言って良い強化本部長である福井 烈氏(JOC理事)やナショナルチームのゼネラルマネージャーである竹内 映二氏(JOC専任コーチングディレクター)からは「情報戦略スタッフの後任をしっかり育てる事」と「情報戦略スタッフの価値をテニス協会内の強化関連スタッフ以外の人にも認知してもらえるように確立する事」を私のミッションとして与えられており、大きな意味で言えばテニス協会内における私の仕事はこの二つのミッションを完遂するという事になると思います。

JISSでの業務内容

JISSではスポーツ情報研究部の契約職員として働いていました。役職としては情報処理技術者としての勤務であり、主な役割としてはJISS3階の情報部オフィスに設置されている「情報サービス室」の管理・運営とユーザーサポートでした。また、これ以外の業務としてはJISSのテニス協会に対するトータルサポートにおける情報サポート部門の主担当者としての活動や競技団体等に向けた講習会における講師役などでした。
JISS3階にある情報サービス室とは、コンピュータ十数台と映像関連機器や複合機等を設置し、JISSの利用者である各競技の選手やコーチ、JISS内の研究者や事務従事者に対して機器の利用をサービスする部屋の事であり、そこの機器の扱い方などに関して利用者が分からない事があれば質問を受けてサポートするという立場での業務を行っていました。
利用者から問われる内容は本当に基礎的な事から映像編集等に関連する専門的な事まで多岐に渡っており、年齢層も幅が広いため様々な経験が出来たと思います。
またもう一つの大きな業務であったテニス協会に対する情報サポートの主担当者としての役割ですが、JISSに対してテニス協会からリクエストされていた内容は主大会における試合映像の撮影とゲーム分析であり、この活動をJISSで担当していた事が現職を得るに至るまで、テニス協会と深く関わる事になった大きなきっかけである事は間違いない事実です。
JISSには2006年度から2009年度末まで4年間、契約職員として在籍しましたが、実際には2004年度のアテネオリンピック時から情報研究部関連のアルバイトに関わり初め、2005年度からはパートタイムではありますが定期的に情報サービス室のユーザーサポートとしてアルバイトで出入りしており、6年間JISSの業務に関わる関係があったという事になります。その初年度の2004年度から実際にテニスのフィールドワークに出向く役割を与えられて活動をしており、そこでテニス協会の強化担当スタッフと関わりが出来たことが現職に繋がってきています。
JISSにテニス協会からリクエストされた内容をサポートするために、フィールドに出向いてテニスを専門にする事の出来るスタッフがたまたまJISSにおらず、アルバイトで出入りしていて、テニス出身者だった私にたまたま仕事が振られた事や、そのサポートに関してテニス協会側の代表者としてJISSに打ち合わせに来ていたのが、私の出身大学である鹿屋体育大学で、実際に私の指導を担当していたテニスの高橋 仁大先生だった事など、今考えるとJISSにおける偶然が重なった事が現職を得ることに至っているので何とも不思議な縁と運を感じます。
ただ、日本のトップスポーツにおいて、強化のためにサポートする専門施設としてJISSが設立され、実際に日本のスポーツ界における課題としての案件や、そこに関わる人、その人達が持ち寄る情報や知見が集約して問題に対処できる場として存在する事はJISSが日本のスポーツ界の中で果たすべき当然の機能の一つだと思いますから、今になって思えばJISSを通して私のような事例が起きるのは必然だったのであり、たまたまその事例が個人レベルでは私の身の回りで起きた事だけが偶然だったのだなと思います。

JISSの仕事で心に残っているもの(大変だったこと)

JISSという場所にいる以上は大変な事が当たり前だと思いますので、今振り返って考えてみて記憶に残るほど大変だったと思う事は意外と少ないです。

おそらく他の人から見たら大変に見える仕事はサポート業務で競技が行われているフィールドに出て行ったときに生じる事が多かったのだと思いますが、フィールドに出て行けば、その場の状況に合わせられる能力が無ければ信用が得られませんし、ごくごく当たり前の事として対応していました。

それ以外にも他人から見たら大変な事も、基本的にはあまりストレスに感じずに対応できていたと思いますが、それは元々自分自身がテニスの強化現場に携わる仕事がしたいというモチベーションを持っていた事と、そのための準備を自分なりに学生の時から継続して準備してきていた事が大きな原因だと思います。

そういう意味では、仕事そのものが大変云々というよりは、他人から見たら大変な仕事を自分自身が楽しみながら継続してやり続けるためのモチベーションを保つことの方が大変だったかもしれません。

でも一番大変な場所であるはずのサポートを行うフィールドに出ていったときにそういったモチベーションの素となるきっかけをもらえる事が多く、自分にとっては大変幸せな仕事だったのではと思います。

具体的に何がモチベーションの素になったかという事を言葉で言い表すのは非常に難しいので書きませんが、仕事を行っている事自体が自分に新しい高いエネルギーを与えてくれていた事は間違いないと思います。

JISSの仕事で心に残っているもの(ためになったこと)

なんと言っても、より自分自身の希望に添った、新しい職場である現職につながる色々な機会を与えてくれた事がためになった事だと思いますが、それ以外に今振り返ってみて、今の自分にとって非常にためになっているのが「自分の専門外」の様々なものに触れる機会が多かった事だと思います。

専門外、の意味は多種多様で、まずは自分が「テニスを専門」としている中で、それ以外の競技における様々なスペシャリスト、例えば選手という立場であったり、コーチという立場であったり、その競技の情報戦略の立場の人であったりといった様々なテニス以外の畑の人たちと接する機会が得られた事は現在の職務を行う上でかなり役に立っていると思います。

また私自身は体育系大学において、テニスにおけるコーチングやトレーニング、コンディショニングといった分野を中心とした事を専門としていたため、情報研究部という部署に「情報処理技術者」という役職で入った事でも「専門外のもの」に触れる機会につながっていたと思います。情報研究部にはスポーツ自体が専門ではない映像や情報技術のスペシャリストの方も多くいらっしゃいます。私自身、元々はテニスのコーチングやトレーニング指導の場においてビデオとコンピュータをうまく活用したいから、という理由でコンピュータによる映像処理やネット関連の知識を仕入れ活用していたので、正直なところ一般的に考えた「情報処理技術者」という役職からすると素人に毛が生えた程度でとても仕事にするレベルではないというレベルのはずです。そういった知識とトップスポーツにおける強化現場とをどうやって具体的に結びつけるかという点に関しては私のような人間がいる事の意味はもちろんあったと思いますが、知識や情報処理分野を仕事とする場合における本来の専門性という意味ではやはり本職の人たちにはかなわないので、そういった人たちのノウハウや仕事ぶりを体感した上で現職に至れた事には大きな意味があると思います。

また、研究としての分野で様々な専門外の人と接する機会があったこともためになったことだと思います。トップスポーツの強化の現場において、ある特定の一分野の研究結果のみを適用する事が、パフォーマンス全体の向上に寄与することは殆ど無く、様々な研究成果がプラス面マイナス面、両方含めてクロスオーバーして得られた結果で強化現場におけるパフォーマンスの向上は生じる物だと思います。そのためには競技の専門家となる立場の人間がそれぞれの研究分野に関して概要を理解し、全体を俯瞰できる事が非常に大切だと思いますので、JISSという最先端の研究を行っている場でそれぞれの分野の専門家に接する機会が得られた事は、今現在自分がテニスの強化に携わる立場となったうえで生きている事が多く、JISSにいたことでためになっている部分だと思います。

JISS,日本スポーツ振興センターの仕事のやりがいは?

私の場合、契約職員という年限が区切られた期間において、最終的に私がやりたいと希望していたテニスの強化を仕事とする事につなげるための1ステップとして上手く活用したいと思って入った背景があり、ある意味不純な動機でJISSに入っているので、やりがいに関してお答えすることは不適切かもしれません。

ただ、JISSはこの先も継続的にそういった目的をもった方が入ってくる可能性が高い場所であり、そういった経緯でJISSが育てた人材を日本のスポーツ界の向上のためにつなげるという機能もJISSの果たすべき役割の一つかと思いますので、そういった目論見においてJISSでの仕事のやりがいはなんと言っても刺激が多いという事だと思います。

ためになった事で書いたように、スポーツの競技力向上という狭い世界ではありますが、そんな中でも自分がまったく知らない領域で競技力向上に携わる専門家が様々な分野でごろごろと周りにいて、その人達とクロスオーバーしながら実際のトップのスポーツの強化現場で仕事をやっていく環境は今のところ日本にはJISSぐらいにしか無いと言って良いと思います。

そういう意味でJISSにおける仕事には刺激が多く転がっており、次のステップアップのためには格好の修行の場だと思います。

ページの一番上へ▲

投稿者: host 投稿日: 2011/05/25 0:00

日本スポーツ振興センター 総務部経営企画室 専門職
2004年10月~2010年3月 JISS 運営部 運営調整課
同 NTC設置準備室

はじめに

connecting the dots・・・” (the Commencement address delivered by Steve Jobs on June 12, 2005)


JISS在籍時の事を書くにあたって、まずこの言葉が頭に浮かんできました。在籍した5年余り、今振り返ると様々なことが繋がっていたと改めて思い、そして、そのように思えることはとても恵まれたことだったと思います。 私のJISSでの経験、感じたことから、一人でも多くの方にJISSで働くことに興味を持っていただけたら幸いです。

JISSに関する話題の前に、JISSの母体である「 独立行政法人日本スポーツ振興センター」での経歴についてお話したいと思います。
私は、2003年4月日本スポーツ振興センターに事務職員として採用されました。スポーツ振興くじtotoを運営・販売するスポーツ振興事業部に配属され、その1年半後にJISSへ。2010年4月に総務部企画調整課に異動し、現在は、2011年4月に新設された総務部経営企画室に所属しております。
経営企画室は、JISSを含めた日本スポーツ振興センター全体の運営方針の策定や日本スポーツ振興センター内外に向けての広報活動等を担当する部署で、最近では政府の行う「事業仕分け」の対応窓口にもなりました。私も仕分け会場には数度足を運び、その雰囲気について学ばせていただきました。ご承知のとおり独立行政法人を取り巻く状況は非常に厳しく、実施している事業に対し常に説明責任を果たすことが求められます。そのような状況の中、経営企画室では、事業仕分けのみならず日々多くの資料要求にも対応しています。他にも、2010年8月に文部科学省により決定された「スポーツ立国戦略」の対応等、今後日本スポーツ振興センターが日本のスポーツ界で果たすべき役割についての検討もしています。
日本スポーツ振興センターの業務については第2回の田上友美子さんの回にも記載されていますが、非常に守備範囲の広い組織だと感じています。

JISSのイメージ、JISSで感じたこと


JISSで活躍されている研究員の方々と(2006年)

それでは、JISSに関する話題に入りたいと思います。
JISSで勤務をしたことがない方々にとってJISSはどのようなイメージでしょうか。「有名な選手がいて華やか」「若いスタッフが多く活気がある」「高度な研究をしていて知的な雰囲気がある」・・・私は、そのようなイメージを抱いていました。そして、どれも当てはまっていたと思います。
しかし、JISSでの日々は、イメージしていたような華やかさだけではありません。もちろんそれまでTVでしか見たことのないような選手と会うことも多くあり、思わずテンションがあがることも多くあります。とはいえ、私たち職員は、ただ見学に来ているわけではなく、業務としてそこに存在しているので、感情をコントロールし、理性で行動できなければなりません。そのような意味で、距離感というか、選手やコーチといった関係者との適度なコミュニケーションをすることで、関係者の皆さんに気持ちよくJISSを利用していただくことが重要だと感じました。

また、テレビに向かって「がんばれ!」と思う気持ちの” 重さ”が変わったことも、JISSでの勤務を通じて感じたことです。一見華やかな選手がそれこそ必死の形相でトレーニングをしていること、それを支えるコーチ・スタッフ、さらにそれを支援するJISS研究員、あるいは、施設を警備・管理する方々、そして事務のスタッフ等々。もちろん私たちが選手の活躍に感動するのは、選手が一人の人間として素晴らしいパフォーマンスをしていることに他なりませんが、JISSで勤務し多くの方々と接する中で、活躍する選手のその奥に見える方たちにも併せて声援を送るようになりました。

いずれにしても、緊張感の中にある楽しさのように、多面的な雰囲気がJISSの魅力だと思います。
JISSの仕事で心に残っているもの
次に私が経験させていただいた仕事についてお話させていただきます。JISSでは、幅広い業務を経験させていただきました。まず運営調整課においてJISSの総務、人事、広報、企画全般に関わることができたほか、2005年から2年間、「ナショナルトレーニングセンター設置準備室」在籍時には、現在の味の素ナショナルトレーニングセンターの敷地が更地だった頃から、その構想の検討や建設過程に関わることができ、まさにゼロから携われるやりがいを感じましたし、またそこでしか味わえない困難も経験しました。
このような「通ったことのない道に轍を作る」という意味では、「日本スポーツ振興センターロンドン事務所」の設置も非常に心に残る仕事でした。

JSPSLondonの皆さんと。右から2人目が古川佑子
所長、左から2人目が関口副所長(当時)。
第1回の阿部篤志さんの回にも記載されているとおり、スポーツの分野における情報戦略の重要性は非常に高いものとなっています。ロンドン事務所は2012年夏に開催されるロンドン五輪に向け、日本のスポーツ界が一丸となって選手、コーチをサポートするため、現地でしか入手の出来ない情報等を提供する拠点ですが、私が関わり始めた2008年秋は、このような考え方に基づく事務所を作るということ、そして、海外に事務所を作るという前例がなかったため、すべてが手探りの状態からの検討でした。例えば、事務所の機能には何が求められるのか、どの程度の部屋が必要なのか、ロンドンのどこに設置するのか、どうやって事務所の契約をするのか等々。しかもそこには日本と英国との文化の違いという壁も。2009年3月、いよいよ事務所設置作業を本格的に進めるため、第1陣としてHeathrow空港に降りたときに感じた高揚感、そして不安の大きさは今でも忘れられません。現地では、在英国日本国大使館やすでに英国に事務所を構えていた他の独立行政法人、さらには現地で活躍している弁護士法人等の支えもあり、多くの困難はあったものの業務を遂行することができました。特に、独立行政法人日本学術振興会(JSPS)ロンドン研究連絡センターの方々には、当方の事務所が無い頃、事務所の一席をご提供いただき、また多くのアドバイスをいただくなど多大なご協力をいただきました(JSPSLondonニュースレター(p29参照))。
現在、ロンドン事務所は後に続く方々の尽力により、大きく発展しております。2012年ロンドン五輪本番に向けて更に関係者の方に積極的に活用していただき、好成績につながることが期待されています。

 CAR(スペイン)、CNMM(カナダ)の
責任者たちと有楽町にて
もうひとつ、海外の方との交流も記憶に残る仕事でした。
JISSには海外からも多くの研究員が訪れ、JISS研究員やスタッフと情報交換等を行っております。私も担当者としてアテンドさせていただく機会が何度かありましたが、特に思い出に残っているのは、2005年春の各国(フランス、スペイン、カナダ)のスポーツ研究施設のトップクラスの役職の方々のアテンドです。
空港での出迎えをはじめとして、ミーティングへの同行、JISSの施設案内や東京観光まで。今後の良好な関係を築くべく、よい印象を持っていただくためにいろいろと趣向を凝らす日々でした。東京観光では、歌舞伎座への案内や、朝6時からの築地案内、皇居や浅草散策。さらには、ホテルや料亭のようなところではなく、”日本らしい”スタイルの宴席をということで、有楽町ガード下の居酒屋にご案内し、ヤカンに入って出てくる焼酎やマグロ納豆等堪能していただいたこともありました。今でも、当時参加された研究員の方々にその当時の思い出を話していただいたり、プライベートで海外に行った際にも現地でお付き合いをいただいたことを考えると、結果的にいい関係が築けたのではないかと思っています。

以上、ロンドン事務所と海外研究員のアテンド、2つの特に印象に残る経験をお話しましたが、これらは最初に述べた ”connecting the dots” を感じる経験でした。
例えば、ロンドンには、日本スポーツ振興センターに入職する直前、シベリア鉄道を使った大陸横断の途中に訪れており、現在もロンドン事務所や日本のスポーツ界と関係の深いLoughborough大学にも訪問しておりました。その時は、数年後業務として再訪するとは思っていませんでしたし、またそのときに知り合った方ともJISSで一緒に働くことにもなり、不思議な繋がりを感じています。また、海外の方のアテンドを経験することで、語学等自分の現状を認識する機会を得ることになりました。もしその経験がなければ、ロンドン事務所の設置に関連する業務をする機会はなかったと思います。そして現在、これらの経験がさらに次の点に繋がろうとしています。 
これらの業務はとてもやりがいのあるものでしたが、それ以外の、その時にはたとえ意義を理解できない仕事であっても、いつか将来何かに必ず繋がっていくものだと思える経験をさせていただきました。
JISSを希望する人へ


JISS研究員の皆さんと
こういう交流も貴重でした
これまでお話ししたとおり、すべての経験が勉強となりました。特に前例のない業務を経験することによって、あきらめずに解決策がどこかにあると信じて道を探すことの意味を教えていただきました。
また、研究員という私たち事務系職員とはある部分で考え方が異なる方たちと仕事をすることにより、今まで自分が持っていなかった物事の見方を学び、視野が広がったとも思っています。その上で、今までの自分の考え方だけで物事をまとめようとするのではなく、さらに踏み込んだ考え方、違う視点からの検討といった「自分がゴールと思っているところから、あと一歩踏み出す」ことを学ぶことができたと思っています。また、研究員の方には、仕事だけでなく、プライベートでも非常に刺激を与えてくれる存在の方も多くおり、そのような方と在籍中に巡り会えたことは非常に幸運でした。 

connecting the dots” という言葉を通じて、私のJISSでの経験、感じたことをお話してきましたが、私がこのような経験をお伝えできるのは、JISSそのものに可能性を広げる多くの機会が溢れていたからだと思います。ただ、その機会を待っているだけでは前には進めません。Planned Happenstance理論にもあるとおりで、仕事がどこかに用意されているのではなく、その都度チャンスだと思うことに全力で向かい合っていくこそがキャリアであり、それは偶然の積み重ねで構築されていくものだと実感しました。多くの機会が素通りしてしまわないよう常にアンテナの感度を高くしている必要があると今でも感じています。

スピーチの中で、もう一部分心に残るフレーズがあります。
the most important, have the courage to follow your heart and intuition
是非、皆さん自身がやりたいことを、自分を主人公として実現できるよう願っております。その中の一人でも、その「やりたいこと」の 対象が日本スポーツ振興センター、JISSであり、いつか一緒に働くことができれば幸いです。

日本スポーツ振興センター同期と国立競技場にて

ページの一番上へ▲

1 2 >>

ページトップへ